書架とラフレンツェ

読書記録メモです。ネタバレがバリバリです。

ネトウヨとブサヨとで話が通じない理由 『社会はなぜ右と左にわかれるのか』

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

(本書は主にアメリカの話ですので、日本で言う保守主義やリベラル等といった言葉とは意味合いが違う場合があります)

 

 大脳生理学や進化論の観点から、人間の倫理観や正義感、政治的信条に差異が生じる理由を探る一冊。

スティーブン・ピンカーリチャード・ドーキンス、アントニオ・ダマシオ等の議論の延長線上にあるものであり、事実本書の一部はピンカーによる下読みが入っている。

またドーキンスはたくさん引用されるものの、特に第11章「宗教はチームスポーツだ」はほぼ丸々『神は妄想である』の批判?になっている。つまり、宗教はウィルスのように伝染するミームであることを認めつつも、それは人類の集団的淘汰に有利に働いたという主張が展開されている。

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

 

 他にもいくつかの興味深い主張をまとめてみる。

人間の正義感は味覚のようにハードコーディングされている

人間には生まれつき「甘い」「塩辛い」といった味覚があるように、正義感も生まれつき備わっている。そして味覚がそうであるように、正義感にもいくつかの種類があり、その強弱や嗜好、それを感じ取るトリガー条件は生まれ持った特徴のほか、生育環境で変化・成長していく。

これらの正義感はいずれも人間が進化していく過程で集団を志向し、その結果人間の身に固定された物だ。

人間の正義感の軸は以下の6種類:

  1. ケア/危害 ……幼子に対する庇護心「自ら身を守る方法を持たない子どもをケアすべし」
  2. 自由/抑圧……個人の自由意思の尊重、あるいは集団への協調の重視
  3. 公正/欺瞞……利己的・詐欺的な行動への嫌悪感「他人につけ込まれないようにしつつ協力関係を結ぶべし」
  4. 忠誠/背信……共同体への帰属意識「連合体を形成し維持すべし」
  5. 権威/転覆……目上の者への尊敬「階層的な社会のなかで有利な協力関係を形成すべし」
  6. 神聖/堕落……清潔志向・穢れた物への忌避感。元は毒のある食物や病原体を避けるためのもの

一般的に保守主義者は上記6つへの志向がほぼ均等に割り振られているが、リベラルは前半3つへの志向が強く、後半の3つはほとんど気にしない。またリバタリアンは2、3への志向が強く、他のものを重んじない。

また、これらの感情が生じるトリガーには文化差がある。例えば可愛い動物への庇護心は1の軸が拡張されたものだが、具体的にどういう動物に対して発動するかは文化圏によって異なる。6の軸もまた、何をもって「穢れ」とするかにいかに文化差があるかは言うまでもない。

これらの軸の組み合わせによって浮かび上がる個々の正義感を、本著では「道徳マトリックス」と呼び、原則として個体差があるものとしている。

ヒトの気持が解らないのはリベラルの方?

これを受けて、相手の政治的立場を想像させると興味深い結果になる。

保守主義者にリベラルの賛成しそうな政策を推測せよ、という課題を出すとかなりの好成績を出すが、リベラルは保守主義者が弱者への保護政策に反対するだろうという誤った推察をした。

正義感の6軸は実運用上は相反するものもあるから、自分の重視しない他の軸を重視している保守主義者を見るとリベラルは自分の軸が軽視されたように感じる。しかし、これは誤った認識。

雑食動物のジレンマ

そもそもこのような正義感の違いがなぜ生じるかというと、人間が雑食動物だったことに端を発する。

雑食動物であった人間は色んな未知のものを食べられるかどうか検証し、エサの種類を増やして反映していく必要があったが、未知のものばかり食べていると毒に当たって死ぬ確率が高まってしまう。このジレンマを解消するため「未知のものを積極的に食べたがる好奇心の強い個体」と「よく知っている物しか食べたがらない保守的な個体」の2傾向が現れるようになった。

こうした違いは生まれつきに存在し、生育環境がその強度や発現条件を規定していく。これは脳内の活動状況や放出されるホルモンのレベルで(つまり、器質的に)異なる。

一般的に、好奇心が強い個体はリベラルになりそうでない個体は保守主義者になる傾向がある。

理性は感情という巨大な象に乗っている小さな御者にすぎない

人間の意思決定にはまず感情がある。特定の状況を前にして人間は即座に何らかの神経伝達物質を放出し、それが対象への好悪を規定する。理性はそれを正当化するための理屈を捻り出し感情を保護するのが第一の仕事で、「感情」という象を力づくで制御する力は「理性」というちっぽけな御者にはない。

ただ理性が感情に対してまったくの無力かというとそういう訳でもなく、御者が象を知り象の気持に寄り添うことで象を目的地に導けるように、理性の方が感情の先手を打ち感情を優しく「説得」することで考え方をより良い方向に変えられる。象は賢いのだ。

(この辺の議論は、個人的には引用されている文献の他『ファスト&スロー』が理解に役立った)

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 宗教や伝統はどこまで社会の害悪か

リベラルの多くは宗教や伝統といったものへのコミットを嫌うが、こうしたものへの嗜好が人間の多くに備わっているのは、それが人間という種の進化に有利に働いてきたという実績があるからだ。事実、完全な功利主義・利己主義の集団よりも宗教的価値観に基づいた利他主義を持つ集団の方が結束が固く生産性が高いという調査結果もある。

著者のジョナサン・ハイトは以前はバリバリのリベラルで、保守主義者のことを物の分からない人間たちだと思っていたが、彼らが自分たちとは別の人類にとって有益な価値観に依拠していると知って見方が変わる。

人間は社会的な生き物であり、人間の集団から離れては生きられない。ならば集団を維持するために必要な慣習であれば、それが一部では不利益を生むとしても闇雲に攻撃するべきではないのではないか?

このように考えてみると、あたかもリベラルは、たとえコロニーを破壊することになっても、その構成メンバーたるミツバチ(実際に助けを必要としている)を救おうとしているかに見える。そのような「改革」は、結局社会全体の福祉を損ない、リベラルが助けようと思っていた犠牲者に、さらなる害を及ぼすことすらある。

(P.474『第12章 もっと建設的な議論ができないのか?』)

 人間が生まれつき多様な主義主張を持つようハードコーディングされているのは、それが人類という種の繁栄に役立つからだ。

中国哲学における陰と陽は、外部からは対立しているように見えるが、実際には相互に依存し合う、補完的な二つの事象を指す。夜と昼、寒と暖、夏と冬、男性と女性は敵同士ではない。

(P.451『第12章 もっと建設的な議論ができないのか?』)

理解できない考え方を持っている人間は自分の足りない部分を補うために生まれてきてくれたのであり、敵ではない――そう考えるようにすると、少しはうまくやれないだろうか?

ロドニー・キングが言ったように、誰もが、ここでしばらく生きていかなければならないのだから、やってみようではないか。

(P.486『第12章 もっと建設的な議論ができないのか?』)