書架とラフレンツェ

読書記録メモです。ネタバレがバリバリです。

それでもあなたは弱者に仕える - エヴァ・フェダー・キティ『愛の労働 あるいは依存とケアの正義論』

先生にこの本をご紹介いただいたのはもう半年以上前のことでしたね。 すっかりお返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

 

 わたし自身がフェミニズム厚生経済学に疎いため、著者の論点をつかむのに時間がかかりました。結局、同書に多く引用されていた以下のアマルティア・センと並べて読むことになりましたので、本稿もこの2冊に拠っての読書感想文とさせていただきます。

不平等の再検討―潜在能力と自由

不平等の再検討―潜在能力と自由

 

 『愛の労働』は依存労働、いわゆる赤ちゃんや老人、身体障害者などといった「社会的弱者」をケアする仕事に携わるひとの権利に関する議論です。彼らは誰かに”依存”しなければ1日たりとも生存ができませんから、社会の中で彼らを生かそうとすると、かならず彼らのケアに携わる依存労働者を必要とします。多くの場合そのような仕事に携わるひとは女性ですから、同著の中には多分にフェミニズムの文脈からの視点が導入されています*1

先生は本書の前提となっていた動機、つまり「社会は再生産するべきなのか?」とう点に引っ掛かりを感じると仰られましたね。人間はみな子どもを持ちたがっているのだから、それを支援するべきだという前提は正しいのかどうかと。もし誰も子どもなど要らないと思う世の中であればそれはそれで構わないと本気で思うから、自分は本書の問題意識をいまいち共有できないと話しておられましたね。

実のところ、個々人の再生産への志向にはバラつきがあり、誰しもが子どもを持ちたい訳ではないという先生のご指摘はわたしも正しいと思います。そして、どのような人生を選択しようとも社会は平等にその生き方を支援するべきだとも思います。ただ、そのような価値観を持ったうえでなお、社会の再生産に対する支援は必要不可欠なものだと思います。それはとりもなおさず、同書で指摘されている自分とは異なる世代に対する2つの倫理的義務を理由とするものです。

1つは、子どもは生存と成長に必ず大人のケアを必要とするという事実、2つ目は、人間は老いたらやはりほぼ確実に他者のケア - 今度は自分より若い世代からのケアを必要とするという事実です。これらの世代間ケアは必ず一方通行なものであり、「子どもが親の介護をすることで親に育ててもらった恩返しをする」という文脈で解釈されるべきではありません。子どもの保育と老人の介護とは異なる性質の仕事であり、どちらかがどちらかの埋め合わせになったりはしません。それに、どちらも親-子以外の無数の支援者の存在があって初めて正常に機能するものです。親-子のたった二人だけで育児や介護が成立するという認識は誤っています。ですから、このケア責任は社会全体で担われるべき性質のものであり、自分が育てられた一方で誰も育てないのはフリーライドであるし、いつか自分をケアすることになる次世代を育成しないのは後先のリスクを考えない不合理行動ということになります。この2つの事実が存在する以上、社会に生きる人間は自分とは異なる世代に対するケアの倫理的義務を負う、という主張にわたしは納得します。

人間が社会を作りそれに参加する理由は、それによって自分の目的が最大限達成しえるからだという極めて利己的な動機であったとしても、それが成立する基盤そのもののに世代の再生産が組み込まれているのだとすれば、再生産に協力する方がより効用の総量を増せるはずです。そこに賛成できないのであれば、そもそも社会制度に関する生産的な議論が成立しないのではないかとも思います。

 

さて、本書での指摘でわたしが個人的に興味深かった論点を2点お話します。1つ目は、依存労働がなぜ低賃金で社会からの正当な評価も得られないのか?という問題です。

依存労働はその性質上、例えば子どもや障碍者、老人などといった社会的弱者を直接の受益者とします。彼らは社会的弱者であるが故に、自分たちをケアする依存労働者に対して自力で十分な報酬を支払うことが(多くの場合)できません。社会的弱者をケアする報酬は第三者、つまり多くの場合「親の財布」や税金から支払われることになり、これが依存労働の過大な負荷に対してあまりにも劣悪な待遇となる搾取の構造を生みます。第三者は直接の受益者でない以上、提供されるサービスの正確な評価が不可能であり、できるだけ報酬を低く抑えようとするインセンティブが働きます。

モノの値段が需要と供給のバランスで決まる、というウソは、今では多くの経済学者も指摘するところです。モノの値段に需要と供給が関係ないとは言いませんが、それ以前に市場における「相場」と顧客の経済力の方がはるかに大きな価格決定要因です。 

プライスレス 必ず得する行動経済学の法則

プライスレス 必ず得する行動経済学の法則

 

 もとより24時間の見守りを必要とするような依存労働において「正当な報酬」など原理的に支払えるはずもありません。ましてやその顧客が社会的弱者ともなればなおさらです。

市場原理による価格の決定が正義であるためには、顧客にそれだけの支払い能力がある必要があります。産業としての依存労働が構造的に破綻している以上、この産業に従事する人間の権利は市場原理以外のロジックで守られなければいけません。そしてそのロジックは必ず成立させないといけません。なぜならば、依存労働という産業は社会に不可欠なものだからです。

社会に不可欠な産業であるにも関わらず、市場原理によって正常な運営が成り立ち得ない、という産業が存在するという指摘は非常に興味深く思いました。この問題は経済学においてどのように解決が試みられるのでしょうか?少なくとも、古典経済学の埒外であることは確かなようです。

 

2点目に興味深かった論点は「ドゥーリア」というアイデア、つまり、「誰かをケアする権利の保証」という発想です。

同書内で指摘されている通り、ケアを必要とする人々の「ケアを受ける権利」は社会で既に広く認められ、そのための支援策もたくさん用意されてきました。介護施設や保育施設、デイケア、専門家の派遣等といった支援は未だ十分ではないにしろ多く用意されていますし、今後も増加する傾向にあるでしょう。その一方で、ケアを提供するひと - 多くの場合家族 - の「ケアをする権利」の保証は未だ不十分なものがあります。それでも、我が国はまだ「家族の世話は家族で」という発想が良くも悪くもありますので、法的な育児休暇や介護休暇の認定が行き届いている方のようですね。そこはアメリカと事情が違うのだなと思いました。

ただ、誰かに対して依存労働を提供しているひとは原理的にその分の権利が制限されている、アマルティア・センの言葉だと「機能を達成するための潜在能力」が制限されている状態にあるということは確かです*2。それが何であるかという指摘は本書には具体的にありませんでしたが、そのための社会制度が必要だという指摘は有意義です。その上で、ケアサービスのインフラを整えつつも「愛する人をケアする権利」をも守る、という姿勢は重要であると思います。

ただ我が国の場合「家族の絆」の美名の元に、劣悪な家族間依存労働環境の中に個人を押し込めるような意見が幅を利かせそうで大いに危険です。それを防ぐためにも、ケアを提供するひとの権利を守るという姿勢の中身はより具体的に議論された方がよさそうです。

 

 わたしからは以上です。また先生のお考えをお聞かせいただければ幸いです。

 

 

*1:ただし、「なぜ依存労働者の多くが女性なのか」という問題についてはそれを示す事実の列挙こそ豊富だったものの、それほど掘り下げがありませんでしたね。その辺りは大した理由がなくとも、差別的な状況が社会の最適解となることはあり得る、という松尾匡先生の『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼 (PHP新書)』というご説明を受けていたのでそれほど引っかかりはしませんでしたけれども。

*2:see also『ラーニング・アロン 通信教育のメディア学』他人に学習機会を提供するために自分の学習機会を削るひとの話が出ています