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書架とラフレンツェ

読書記録メモです。ネタバレがバリバリです。

ネトウヨとブサヨとで話が通じない理由 『社会はなぜ右と左にわかれるのか』

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

(本書は主にアメリカの話ですので、日本で言う保守主義やリベラル等といった言葉とは意味合いが違う場合があります)

 

 大脳生理学や進化論の観点から、人間の倫理観や正義感、政治的信条に差異が生じる理由を探る一冊。

スティーブン・ピンカーリチャード・ドーキンス、アントニオ・ダマシオ等の議論の延長線上にあるものであり、事実本書の一部はピンカーによる下読みが入っている。

またドーキンスはたくさん引用されるものの、特に第11章「宗教はチームスポーツだ」はほぼ丸々『神は妄想である』の批判?になっている。つまり、宗教はウィルスのように伝染するミームであることを認めつつも、それは人類の集団的淘汰に有利に働いたという主張が展開されている。

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

 

 他にもいくつかの興味深い主張をまとめてみる。

人間の正義感は味覚のようにハードコーディングされている

人間には生まれつき「甘い」「塩辛い」といった味覚があるように、正義感も生まれつき備わっている。そして味覚がそうであるように、正義感にもいくつかの種類があり、その強弱や嗜好、それを感じ取るトリガー条件は生まれ持った特徴のほか、生育環境で変化・成長していく。

これらの正義感はいずれも人間が進化していく過程で集団を志向し、その結果人間の身に固定された物だ。

人間の正義感の軸は以下の6種類:

  1. ケア/危害 ……幼子に対する庇護心「自ら身を守る方法を持たない子どもをケアすべし」
  2. 自由/抑圧……個人の自由意思の尊重、あるいは集団への協調の重視
  3. 公正/欺瞞……利己的・詐欺的な行動への嫌悪感「他人につけ込まれないようにしつつ協力関係を結ぶべし」
  4. 忠誠/背信……共同体への帰属意識「連合体を形成し維持すべし」
  5. 権威/転覆……目上の者への尊敬「階層的な社会のなかで有利な協力関係を形成すべし」
  6. 神聖/堕落……清潔志向・穢れた物への忌避感。元は毒のある食物や病原体を避けるためのもの

一般的に保守主義者は上記6つへの志向がほぼ均等に割り振られているが、リベラルは前半3つへの志向が強く、後半の3つはほとんど気にしない。またリバタリアンは2、3への志向が強く、他のものを重んじない。

また、これらの感情が生じるトリガーには文化差がある。例えば可愛い動物への庇護心は1の軸が拡張されたものだが、具体的にどういう動物に対して発動するかは文化圏によって異なる。6の軸もまた、何をもって「穢れ」とするかにいかに文化差があるかは言うまでもない。

これらの軸の組み合わせによって浮かび上がる個々の正義感を、本著では「道徳マトリックス」と呼び、原則として個体差があるものとしている。

ヒトの気持が解らないのはリベラルの方?

これを受けて、相手の政治的立場を想像させると興味深い結果になる。

保守主義者にリベラルの賛成しそうな政策を推測せよ、という課題を出すとかなりの好成績を出すが、リベラルは保守主義者が弱者への保護政策に反対するだろうという誤った推察をした。

正義感の6軸は実運用上は相反するものもあるから、自分の重視しない他の軸を重視している保守主義者を見るとリベラルは自分の軸が軽視されたように感じる。しかし、これは誤った認識。

雑食動物のジレンマ

そもそもこのような正義感の違いがなぜ生じるかというと、人間が雑食動物だったことに端を発する。

雑食動物であった人間は色んな未知のものを食べられるかどうか検証し、エサの種類を増やして反映していく必要があったが、未知のものばかり食べていると毒に当たって死ぬ確率が高まってしまう。このジレンマを解消するため「未知のものを積極的に食べたがる好奇心の強い個体」と「よく知っている物しか食べたがらない保守的な個体」の2傾向が現れるようになった。

こうした違いは生まれつきに存在し、生育環境がその強度や発現条件を規定していく。これは脳内の活動状況や放出されるホルモンのレベルで(つまり、器質的に)異なる。

一般的に、好奇心が強い個体はリベラルになりそうでない個体は保守主義者になる傾向がある。

理性は感情という巨大な象に乗っている小さな御者にすぎない

人間の意思決定にはまず感情がある。特定の状況を前にして人間は即座に何らかの神経伝達物質を放出し、それが対象への好悪を規定する。理性はそれを正当化するための理屈を捻り出し感情を保護するのが第一の仕事で、「感情」という象を力づくで制御する力は「理性」というちっぽけな御者にはない。

ただ理性が感情に対してまったくの無力かというとそういう訳でもなく、御者が象を知り象の気持に寄り添うことで象を目的地に導けるように、理性の方が感情の先手を打ち感情を優しく「説得」することで考え方をより良い方向に変えられる。象は賢いのだ。

(この辺の議論は、個人的には引用されている文献の他『ファスト&スロー』が理解に役立った)

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 宗教や伝統はどこまで社会の害悪か

リベラルの多くは宗教や伝統といったものへのコミットを嫌うが、こうしたものへの嗜好が人間の多くに備わっているのは、それが人間という種の進化に有利に働いてきたという実績があるからだ。事実、完全な功利主義・利己主義の集団よりも宗教的価値観に基づいた利他主義を持つ集団の方が結束が固く生産性が高いという調査結果もある。

著者のジョナサン・ハイトは以前はバリバリのリベラルで、保守主義者のことを物の分からない人間たちだと思っていたが、彼らが自分たちとは別の人類にとって有益な価値観に依拠していると知って見方が変わる。

人間は社会的な生き物であり、人間の集団から離れては生きられない。ならば集団を維持するために必要な慣習であれば、それが一部では不利益を生むとしても闇雲に攻撃するべきではないのではないか?

このように考えてみると、あたかもリベラルは、たとえコロニーを破壊することになっても、その構成メンバーたるミツバチ(実際に助けを必要としている)を救おうとしているかに見える。そのような「改革」は、結局社会全体の福祉を損ない、リベラルが助けようと思っていた犠牲者に、さらなる害を及ぼすことすらある。

(P.474『第12章 もっと建設的な議論ができないのか?』)

 人間が生まれつき多様な主義主張を持つようハードコーディングされているのは、それが人類という種の繁栄に役立つからだ。

中国哲学における陰と陽は、外部からは対立しているように見えるが、実際には相互に依存し合う、補完的な二つの事象を指す。夜と昼、寒と暖、夏と冬、男性と女性は敵同士ではない。

(P.451『第12章 もっと建設的な議論ができないのか?』)

理解できない考え方を持っている人間は自分の足りない部分を補うために生まれてきてくれたのであり、敵ではない――そう考えるようにすると、少しはうまくやれないだろうか?

ロドニー・キングが言ったように、誰もが、ここでしばらく生きていかなければならないのだから、やってみようではないか。

(P.486『第12章 もっと建設的な議論ができないのか?』)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高速で論文がバリバリ読める落合先生のフォーマットがいい感じだったのでメモ


(図書館学系の話題でもあるからちょっと悩んだけれど、文献読解全般に関する内容だからこちらへ)

 

既に日々論文をバリバリ読んでいるひとには今更な記事だろうけれど、分野ごとの違いもあって興味深かったのでざっくり記録する。

 

論文を大量に読む際に、頭から几帳面に読んでいると時間がどれほどあっても足りないし、後から「こんなことが書いてあった論文なんだったっけ?」という問題も発生してしまう。
研究者の皆様はMendeley などの文献管理ツールをを用いていることが多いかとは思うが、それでも論文の読み方そのものに工夫をすればインプット/アウトプットの効率が圧倒的によくなるので、やってみるにこしたことはない。
その工夫とは何かというと、論文を読むときに「特定の問いに集中して読む」というものだ。学術論文は分野ごとの違いはあれ、必ず特定の流れに従って構成されている。そこで要点のみに注目して読み、他の事項を捨てることで高速かつ要点を踏まえた論文の読み込みができるのだ。

www.slideshare.net

以下に紹介するものは落合陽一先生が「先端技術とメディア表現1 #FTMA15」  のスライド65枚目で紹介していた論文まとめのフォーマットだ。実験論文用だが、以下のような構成になっている。

f:id:aliliput:20150804120029j:plain

  1. どんなもの?
  2. 先行研究と比べてどこがすごい?
  3. 技術や手法のキモはどこ?
  4. どうやって有効だと検証した?
  5. 議論はある?
  6. 次に読むべき論文は?

このフォーマットに従って問いを埋めていくだけで、論文ひとつの内容をA4半分~1枚に圧縮できる。これで出来上がるものはその論文の「オレオレ要旨」ともいえるものだ。

論文にはほぼ必ず要旨がついているものだけれど、論文によって要旨の記載事項はバラバラだから要旨をそのままインデックスには使えない。また、普段なじみのない作法で書かれた他分野の論文を読む時には、自分ならではのフォーマットに従って読んだ方がより素早く理解でき利用すべきポイントも簡単に見いだせる。

こうしたフォーマットは実験論文に適用するもの以外にも考えられる。例えば、理論研究だったら下記のようなものがあり得る。

  1. どんなもの?
  2. 批判されている理論は何?
  3. どういう文脈・理路をたどっている?
  4. 対象となるスコープにおいて網羅性と整合性はある?
  5. 議論はある?
  6. 次に読むべき論文は?

このフォーマットに従うと、オレオレ要旨だけではなく自動的に文献批判の骨子までできてしまう。

また「集めた文献をどう整理すべきか?→知のフロント(前線)を浮かび上がらせるレビュー・マトリクスという方法 読書猿Classic: between / beyond readers」では、レビュー・マトリクスというフォーマットを用いての文献整理を紹介している。こちらは医療・疫学分野で役立ちそうなフォーマットで、各論文を横断的に比較できる強力なものだ。このフォーマットの出典はこちらの本。

看護研究のための文献レビュー―マトリックス方式

看護研究のための文献レビュー―マトリックス方式

  • 作者: ジュディスガラード,Judith Garrard,安部陽子
  • 出版社/メーカー: 医学書院
  • 発売日: 2012/05
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 これらの読解用フォーマットは、論文を書く際のフォーマットとは必ずしも一致しない。著者にとって重要な文脈や要点が、読者にとってもそうだとは限らないからだ。

個別のテーマに従って文献を収集している場合、特にこうしたフォーマットが威力を発揮する。ある特定のテーマの文献研究用に特別なフォーマットを作成するのもよい。著者が想定した論文の読み方にはならないかもしれないが、論文は娯楽小説ではなくて問題解決のために読まれるものだ。著者の考えた論の流れに乗っかったままでいると、「結局、自分のテーマにとってこの論文はどういう意義があったのか?」を見失ってしまうこともある。明白な文脈を断ち書いていないことを見出すような妄想力を発揮さえしなければ、論文の読み方は各人の自由で構わない。


この世に「論文の書き方」と銘打った、書く側の視点に立った論文構成法はたくさん紹介されている。しかし論文の読み方という観点ではそれほど独立した資料がないようだ。この点、書誌学的にも興味深いところなので、また追って調べてみたい。

それと、もし皆さんが「自分はこんなの使ってる!」というのがあればぜひ教えてください。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

 

 

それでもあなたは弱者に仕える - エヴァ・フェダー・キティ『愛の労働 あるいは依存とケアの正義論』

先生にこの本をご紹介いただいたのはもう半年以上前のことでしたね。 すっかりお返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

 

 わたし自身がフェミニズム厚生経済学に疎いため、著者の論点をつかむのに時間がかかりました。結局、同書に多く引用されていた以下のアマルティア・センと並べて読むことになりましたので、本稿もこの2冊に拠っての読書感想文とさせていただきます。

不平等の再検討―潜在能力と自由

不平等の再検討―潜在能力と自由

 

 『愛の労働』は依存労働、いわゆる赤ちゃんや老人、身体障害者などといった「社会的弱者」をケアする仕事に携わるひとの権利に関する議論です。彼らは誰かに”依存”しなければ1日たりとも生存ができませんから、社会の中で彼らを生かそうとすると、かならず彼らのケアに携わる依存労働者を必要とします。多くの場合そのような仕事に携わるひとは女性ですから、同著の中には多分にフェミニズムの文脈からの視点が導入されています*1

先生は本書の前提となっていた動機、つまり「社会は再生産するべきなのか?」とう点に引っ掛かりを感じると仰られましたね。人間はみな子どもを持ちたがっているのだから、それを支援するべきだという前提は正しいのかどうかと。もし誰も子どもなど要らないと思う世の中であればそれはそれで構わないと本気で思うから、自分は本書の問題意識をいまいち共有できないと話しておられましたね。

実のところ、個々人の再生産への志向にはバラつきがあり、誰しもが子どもを持ちたい訳ではないという先生のご指摘はわたしも正しいと思います。そして、どのような人生を選択しようとも社会は平等にその生き方を支援するべきだとも思います。ただ、そのような価値観を持ったうえでなお、社会の再生産に対する支援は必要不可欠なものだと思います。それはとりもなおさず、同書で指摘されている自分とは異なる世代に対する2つの倫理的義務を理由とするものです。

1つは、子どもは生存と成長に必ず大人のケアを必要とするという事実、2つ目は、人間は老いたらやはりほぼ確実に他者のケア - 今度は自分より若い世代からのケアを必要とするという事実です。これらの世代間ケアは必ず一方通行なものであり、「子どもが親の介護をすることで親に育ててもらった恩返しをする」という文脈で解釈されるべきではありません。子どもの保育と老人の介護とは異なる性質の仕事であり、どちらかがどちらかの埋め合わせになったりはしません。それに、どちらも親-子以外の無数の支援者の存在があって初めて正常に機能するものです。親-子のたった二人だけで育児や介護が成立するという認識は誤っています。ですから、このケア責任は社会全体で担われるべき性質のものであり、自分が育てられた一方で誰も育てないのはフリーライドであるし、いつか自分をケアすることになる次世代を育成しないのは後先のリスクを考えない不合理行動ということになります。この2つの事実が存在する以上、社会に生きる人間は自分とは異なる世代に対するケアの倫理的義務を負う、という主張にわたしは納得します。

人間が社会を作りそれに参加する理由は、それによって自分の目的が最大限達成しえるからだという極めて利己的な動機であったとしても、それが成立する基盤そのもののに世代の再生産が組み込まれているのだとすれば、再生産に協力する方がより効用の総量を増せるはずです。そこに賛成できないのであれば、そもそも社会制度に関する生産的な議論が成立しないのではないかとも思います。

 

さて、本書での指摘でわたしが個人的に興味深かった論点を2点お話します。1つ目は、依存労働がなぜ低賃金で社会からの正当な評価も得られないのか?という問題です。

依存労働はその性質上、例えば子どもや障碍者、老人などといった社会的弱者を直接の受益者とします。彼らは社会的弱者であるが故に、自分たちをケアする依存労働者に対して自力で十分な報酬を支払うことが(多くの場合)できません。社会的弱者をケアする報酬は第三者、つまり多くの場合「親の財布」や税金から支払われることになり、これが依存労働の過大な負荷に対してあまりにも劣悪な待遇となる搾取の構造を生みます。第三者は直接の受益者でない以上、提供されるサービスの正確な評価が不可能であり、できるだけ報酬を低く抑えようとするインセンティブが働きます。

モノの値段が需要と供給のバランスで決まる、というウソは、今では多くの経済学者も指摘するところです。モノの値段に需要と供給が関係ないとは言いませんが、それ以前に市場における「相場」と顧客の経済力の方がはるかに大きな価格決定要因です。 

プライスレス 必ず得する行動経済学の法則

プライスレス 必ず得する行動経済学の法則

 

 もとより24時間の見守りを必要とするような依存労働において「正当な報酬」など原理的に支払えるはずもありません。ましてやその顧客が社会的弱者ともなればなおさらです。

市場原理による価格の決定が正義であるためには、顧客にそれだけの支払い能力がある必要があります。産業としての依存労働が構造的に破綻している以上、この産業に従事する人間の権利は市場原理以外のロジックで守られなければいけません。そしてそのロジックは必ず成立させないといけません。なぜならば、依存労働という産業は社会に不可欠なものだからです。

社会に不可欠な産業であるにも関わらず、市場原理によって正常な運営が成り立ち得ない、という産業が存在するという指摘は非常に興味深く思いました。この問題は経済学においてどのように解決が試みられるのでしょうか?少なくとも、古典経済学の埒外であることは確かなようです。

 

2点目に興味深かった論点は「ドゥーリア」というアイデア、つまり、「誰かをケアする権利の保証」という発想です。

同書内で指摘されている通り、ケアを必要とする人々の「ケアを受ける権利」は社会で既に広く認められ、そのための支援策もたくさん用意されてきました。介護施設や保育施設、デイケア、専門家の派遣等といった支援は未だ十分ではないにしろ多く用意されていますし、今後も増加する傾向にあるでしょう。その一方で、ケアを提供するひと - 多くの場合家族 - の「ケアをする権利」の保証は未だ不十分なものがあります。それでも、我が国はまだ「家族の世話は家族で」という発想が良くも悪くもありますので、法的な育児休暇や介護休暇の認定が行き届いている方のようですね。そこはアメリカと事情が違うのだなと思いました。

ただ、誰かに対して依存労働を提供しているひとは原理的にその分の権利が制限されている、アマルティア・センの言葉だと「機能を達成するための潜在能力」が制限されている状態にあるということは確かです*2。それが何であるかという指摘は本書には具体的にありませんでしたが、そのための社会制度が必要だという指摘は有意義です。その上で、ケアサービスのインフラを整えつつも「愛する人をケアする権利」をも守る、という姿勢は重要であると思います。

ただ我が国の場合「家族の絆」の美名の元に、劣悪な家族間依存労働環境の中に個人を押し込めるような意見が幅を利かせそうで大いに危険です。それを防ぐためにも、ケアを提供するひとの権利を守るという姿勢の中身はより具体的に議論された方がよさそうです。

 

 わたしからは以上です。また先生のお考えをお聞かせいただければ幸いです。

 

 

*1:ただし、「なぜ依存労働者の多くが女性なのか」という問題についてはそれを示す事実の列挙こそ豊富だったものの、それほど掘り下げがありませんでしたね。その辺りは大した理由がなくとも、差別的な状況が社会の最適解となることはあり得る、という松尾匡先生の『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼 (PHP新書)』というご説明を受けていたのでそれほど引っかかりはしませんでしたけれども。

*2:see also『ラーニング・アロン 通信教育のメディア学』他人に学習機会を提供するために自分の学習機会を削るひとの話が出ています

暴力・愛・没入 -- 井戸ぎほう『夜はともだち』

偶には腐女子らしくBL本の感想でも。 

夜はともだち (POE BACKS Babyコミックス)

夜はともだち (POE BACKS Babyコミックス)

 

 男子学生2人のBL。真性ハード系ドMの無口な飛田くんと、本当はSでもなんでもないのに飛田くんのために彼を暴行し続けて病みかける真澄の話。あらすじの説明は以上で、ここから先はネタバレを含む感想文です。もっと詳しく本作について知りたい方はこちらをどうぞ。

honz.jp

 

これは男女間では成立が難しい物語だ。男性二人の恋愛を主題にするはっきりとした理由が本作にはある。男女間での暴力、DVを取り扱った作品は非常に多く、また現実世界でもよくある話とされている。大抵暴力を振るう側は男性であり、振るわれる側は女性だ。非常によくある話だからこそ、その物語は類型化されて多様な派生的イメージを持つ。例えば「差別」や「心の病」、「貧困」などなど----こういうものを描くために男女間の暴力が題材とされることも多い。
また男女を逆にした場合、それはそれで別の派生的イメージを生む。粗暴な性格であったり、あるいは身分の高い女性が男性に(広義の)暴力を振るう物語もたくさんあり、それは往々にして女性側の活発なキャラクターイメージと男性側の大人しい性格の対比、あるいは苦労といったものを描くために導入されるエピソードとなる。
いずれにしろ親密な異性間に持ち込まれる暴力は、男女間の乗り越えられない性差(厳密に言うと体格差)というものを前提としている。その差が暴力を振るう側と振るわれる側に非対称性を持ち込み、暴力は自明な搾取の手段となる。そういうのが、本作を成立させる上でかなり邪魔な要素となってしまうのだ。


飛田くんと真澄はどちらも健康な男子であり、二人の間には体格差がほとんど見られない(実は設定上飛田くんの方が真澄よりやや身体が大きいらしいけれど)。お互い日本人の学生なので、社会的地位の差などといった要素も存在しない。まったく対等な関係における暴力というものを描くのにこれ以上の設定はなく、それが本作において暴力を媒介として成立する愛、というテーマを純粋な形で浮かび上がらせている。
真澄の飛田くんに対する一方的な暴力が成立している理由は、単に飛田くんがそれを望んでいるからだ。それどころか真澄は暴力的な関係など望んでおらず、飛田くんと「普通の」関係を築こうとして苦悩する。しかし飛田くんの性的嗜好はゆがみまくっているので、暴力を媒介としない愛を彼は受け取れない。

「好きなひとに暴力を振るうなんて嫌だ」と思う真澄と「好きなひとに暴力を振るわれたい」と願う飛田くんの気持は最後まで妥協も止揚もされず、ラストシーンでも性的嗜好においてこの二人はこれからも一致をみることはないだろうと予想される。何しろこの二人はそれを理由に一旦破局しているのだ。つまり性愛の物語としては、本作はバッドエンドだ。正直、この二人がこれから先の人生において性的嗜好の不一致を理由にまた破局したとしても「せやな」以上の感想はない。
ただ暴力の媒介によって培われた「愛」の物語として本作はハッピーエンドだ。少なくともこのラストシーンをバッドエンドと受け取る読者はいないだろう。最後の最後で、真澄は飛田くんが性的パートナーとしてのみでなく、自分という人間を求めてくれていたことに気づく。その表象においてまったくかみ合わなくても、それでもなお二人の間で愛は成立していたのだ。


物語は真澄視点で進行するので、真澄が飛田くんに対して抱く恐怖は明確に読者の前に提示されている。それは他人に暴力を振るうことに対する恐怖であったり、理解できない性的嗜好に対する恐怖であったり、そして何より「自分は愛されていないのではないか」という恐怖だ。例え飛田くんの望みとはいえ、彼に暴力を振るい続ける自分が彼に愛される訳がない、なぜならば暴力は搾取の手段だから……という理路が本作中で説明されている訳ではないが、まあこのくらいは妄想の範疇として許可されるだろう。またそれに加えて、飛田くんが自分なりの「普通の」愛し方というものを受け入れてくれない、というのも自分が愛されていないとする根拠として挙げられるが、これは表裏一体の問題だ。つまり、愛の方法論的な課題なのである。 

愛するということ

愛するということ

 

 エーリッヒ・フロム先生も指摘されるように、愛は技術だ。誰かを愛する方法があり、また愛を受け取る方法があって二者間に愛が成立する。ここが根本的に噛みあわない場合、愛の成立は困難だ。愛の重要な機能の一つである孤独の解消、関係への没入が達成されないからだ。

飛田くんと真澄の方法は噛みあっていない。しかし奇妙なことに成立はしている。最初は真澄が飛田くんの求める方法に徹底的に合わせ、奉仕することによって、最後は飛田くんが真澄の理解できる方法で自分の愛を示すことによって。ただし、やはりそこに至る手前の段階では、少なくとも真澄の側はセックスに没入できておらず、飛田くんとの一体感も孤独の解消も得られていない。

お互いの方法が全くかみ合わない場合でも、片方が自分の方法を押し殺し、相手に合わせることによって短期的には愛が成立する。しかしそれが永遠に続く一方的な奉仕である場合、いずれは破局する。ただ例え最後はそうなったとしても、一度は愛を成立させようとして極限まで行った努力はきっと相手に受け止めてもらえるし、相手の心に愛を生むはずだ ---- というのは最高に甘ったれた幻想だけれど、しかしこれはBLだしだがそれがいいんだよッ!!ラストに至るまでの真澄の心痛を思い知らされている読者は、この結末を別にご都合主義だとは思わない。真澄はこんなに奉仕したのだから、報われて当然なのだ。その点でちゃんとカタルシスのある、読後感のよいまとまりのある良作となっている。

これは余談だけれど、いわゆる「セックスから始まる恋愛」を描くのにBLというのは適したプラットフォームだと思う。フェミニストの主張を引くまでもなく異性間の性行為は暴力のようなもので、どうしても非対称性と搾取の構造的なイメージが付きまとってしまい、ある特定の事例における個別の愛を余計な要素なしに描くのは難しい。その点対等な同性間の性愛には、そういった身体の差異にまとわる非対称性だの差別だのは最初から捨象されている。だからポリティカル・コレクトネスに違反するようなエピソードや演出にハラハラすることなく安心して読める……ような気になるんだよね。


結論: 面白かったです(^p^)

そろそろ「プログラマー35歳定年説」を徹底論破しとくか

世の中に流布している「プログラマー35年定年説」は、大きく以下の3つに分類できる。

  • プログラマーは激務なので、35歳を過ぎると体力低下のために続けられなくなる(体力低下説)
  • プログラマーは常に新しい情報を吸収しなければならないが、35歳を超えると脳の働きが低下して新しいことを覚えられなくなるために続けられなくなる(学習能力低下説)
  • プログラマーは35歳を超えると開発ではない業務を求められるようになるので、技術職としてのプログラマーのキャリアが途絶える(マネージメント原因説)

以下、ひとつずつ検証していく。

 

体力低下説

まず1つ目の「体力低下説」だが、これについてはそれほど深く考る必要がなさそうに思える。周知の通り気力や体力には個体差があり、若くても元気がないひともいれば歳をとっても元気なひともいる。また、35歳あたりの体力低下の原因としては、単純な加齢というよりも生活習慣の要因の方が大きそうだ。普段から食事や睡眠をしっかり取り、適度な運動をしているならば、35歳でもどうということはないだろうし、そうでないならば25歳だって成人病になったり過労死する人もいる。

また「プログラマーは激務」も、一体どこまで当然としてよい話なのだろうか?確かに過酷な開発現場も多いだろう。しかしプログラマーの仕事の本質は不眠不休コンテストではない。休まずに働けるのが良いプログラマーの条件ならば、人間ではなくキリンでも雇っておけばよいのだ。若者しか勤まらないような過酷な開発現場は単にマネジメントが失敗している一部に存在するだけであり、専門職としてのプログラマーがその専門性を発揮するのに不適切なところだ。

したがって体力低下説は、例外的な一部の不摂生プログラマーや破綻した開発現場にのみ適用される限定的な説であり、元よりそのような専門性を語るに値しない領域の話をプログラマー全体の話として一般化できない。

なお、不幸にしてそのような悲惨な現場に放り込まれてしまった場合のサバイブ術については、事項で少し触れる。

 

学習能力低下説

次に「学習能力低下説」だが、最近の脳科学の研究成果によると、35歳を超えての学習能力低下は認められていない。もちろん単純な記憶能力は年齢とともに低下するが、論理的思考力や創造性などはむしろ年齢にしたがって上昇するとの研究報告もあり、35歳程度での年齢での学習能力低下を裏付けるエビデンスは現在のところ見つかっていない。
もしプログラマーに求められる能力が丸暗記ならば、プログラマーの定年は35歳どころか20歳だ。しかし知識もさることながら、経験に裏打ちされた問題解決力や創造的思考が重要ならば、65歳くらいまでは常に新しい知識を取り入れつつ経験を積んでいるベテランほど専門性が高まる。

これらの脳科学における研究成果は、そのものズバリ脳と学習との関係について現在までの研究成果を包括的にまとめた『脳からみた学習』が大変参考になる。

脳からみた学習 −新しい学習科学の誕生

脳からみた学習 −新しい学習科学の誕生

 

 脳科学の知見から加齢と学習能力の関係、右脳-左脳論のウソ、学習したい内容に対する効率のよい学習方法についてなどが豊富な実証研究結果と共に紹介されており、読みごたえがある。

この本によると、学習能力は新しいことを学んだ経験を積めば積むほど高まる。したがって、プログラマーとして必要な学習能力を維持向上したければ、常に新しいことを学ぶべく勉強を続ける必要がある。

効率のよい学習の方法としては『誰かを教えることになったあなたへ -IDへの招待 ※6/24追記 - 図書館学徒未満』 を自分に適用すればいいが、学習方法よりも切実なのが学習にかかる時間をどのように確保するかという問題だ。まず業務を効率よく終わらせ、学習時間を確保するには『エンジニアのための時間管理術』が実践的な内容を豊富に含み役立つ。

エンジニアのための時間管理術

エンジニアのための時間管理術

 

 また、少し踏み込んだ内容となるが『アジャイルサムライ−達人開発者への道−』も比較的すぐに取り入れやすいプロジェクト管理のノウハウを豊富に集めている。ただチーム単位で導入すべきテクニックが多いので、個人ですぐにやってみるという訳にはいかないかもしれない。

小手先のノウハウではなくプロジェクト全体に対するマネジメントを学ぶには、「クリティカルチェーン」 *1というアイデアの元となったTOC解説書である『クリティカルチェーン』が分かりやすい。破綻しそうなプロジェクトを闇に落とさない方法を小説形式で解説しているが、時系列順に登場人物の思考を追う形で考え方が解説されているので自然に理解しやすい。

クリティカルチェーン―なぜ、プロジェクトは予定どおりに進まないのか?

クリティカルチェーン―なぜ、プロジェクトは予定どおりに進まないのか?

 

クリティカルチェーンは単なる見積り法の一つではなく、TOCというシンプルで強力な経営管理理論から導出された「プロジェクト管理」というものに対する思想的態度であるとわかる。

日々のタスク処理においてもプロジェクト管理においても、どちらにも重要なのはボトルネックの検出と解消だ。ボトルネックの存在を意識しつつタスクを処理していくだけでも、大幅に効率を向上させられる。


「どんなに素晴らしい時間管理法が分かったとしても、上司やクライアントが協力してくれなければ何にもならないよ……」とお嘆きの場合は、そういったひとたちに納得してもらいやすい説得方法が豊富に詰まった『週四時間だけ働く』が参考になる。

「週4時間」だけ働く。

「週4時間」だけ働く。

 

 ひとりで頑張っても効率よく時間は作れない、だから同僚や上司やクライアントを巻き込む必要がある。それはその通りだ。彼らを説得するには説得技術そのものも大切だが、それと同時に彼らを取り巻く世界のパワーバランスを理解しておく必要がある。プログラマーが上司やクライアントに制約されているのと同じように、彼らもまた"何か"の制約を受けており、それに逆らうことはできない。プログラマーの勉強時間を確保させないマネージャーには、そうするだけの理由があるのだ。

それが一体なんであるかは、次の項で述べる。


マネージメント原因説

これについては@Grabacr07 氏による解説が分かりやすい。


つまり「単価と年齢が比例する」かつ「開発者としてのキャリアパスが存在しない」の2条件が揃う企業(あるいは業種)では、35歳以上の開発者の就業維持が事実上難しく、*2それがプログラマーの技術職としてのキャリアを途絶えさせる原因となっている。そして、そうした企業はSIerが多いため、SIerでは「プログラマーは35歳が定年」と言われるのだ。この説に基づくとこれは純粋に企業のマネジメント上の問題であり、個人としてはそのような企業を就業先に選ばない、という以上の回避策はない。

さて「単価と年齢が比例する」かつ「開発者としてのキャリアパスが存在しない」の2条件の存在は、すなわちその企業ではプログラマーの「技術力」を評価対象としていないことを意味する。もしその企業で技術力が評価対象になるならば、単価は年齢ではなく技術力によって決まるはずだし、評価軸はシーケンシャルなものだから、開発者が技術力を向上させていく上でのキャリアパスも存在するはずだ。

SIerは労働集約型産業だから、その富の源泉は「資源」、すなわち人間に宿る高度なスキルではなく、「プロセス」、すなわちビジネスを効率よく処理する仕組みにある。富の源泉がプロセスにあるならば、従業員の技術力はそのプロセスを回す程度にあればよく、それ以上の技術力を評価しても手間ひまがムダになるだけだ。もちろん勉強時間や教育機会を従業員に与えるのもムダで、そんな余裕があるならば少しでも「コスト削減」に費やすべきだ、という考え方になる。企業をある程度以上の規模に育てるにはどこかの時点で富の源泉をプロセスに移行する必要があるので、このような考え方には一定の合理性がある。

イノベーションへの解 利益ある成長に向けて (Harvard business school press)

イノベーションへの解 利益ある成長に向けて (Harvard business school press)

 

 しかしクリステンセンによる『イノベーションへの解』での指摘によると、そのプロセスには絶えず改善を加えないと陳腐化してしまう。市場も顧客も技術も常に進歩し続けるから、いつまでも同じプロセスでは対応できなくなるのだ*3。そして改善を行うには「資源」が必要である。そうしない企業はいつしか陳腐化したプロセスとそのプロセスを回すしか能のない肥大化した人員を抱え込んだまま市場から追い出されてしまう。だからそうならないためには、労働集約型産業とは言え一定の「資源」、つまりこの場合は技術力の高い人員を常に維持しておく必要はある。

まぁこれは一般論だから、現実のSIerがこれからどうなっていくのかはまだわからないけれど。

 

では、企業はどんな方法で資源である技術力の高い人員を確保し続けるのだろうか?その方法には以下の2つがある。

  1. どこかから雇ってくる(含外注)
  2. 社内で育成する

1の採用方法については以前『採用で失敗しない、たった一つの冴えたやり方 - 書架とラフレンツェ』で書いたのでここでは省略する。そして社内で育成する、というやり方でも、その記事で紹介した「職務記述書」が重要な役割を果たすのだ。

古典的な組織論の教科書である『組織デザイン』によると、企業が必要とするスキルには2種類がある。

組織デザイン (日経文庫)

組織デザイン (日経文庫)

 
  1. 会社の外でも通用するスキル(専門性; professionality)
  2. その会社の中でしか通用しないスキル (ローカルスキル)

一般に労働者個人の市場価値を高めるのは前者の「専門性」の方だが、企業にとっては後者も同程度かそれ以上に重要であり、それを育成するには社内で育成する以外の方法がない。これは日本でも海外でも変わらない。だから、アメリカなどの企業でも当然に人材育成を目的とした配置転換は行われているし、経営者は離職率を下げるための施策に頭を悩ませている。「アメリカの企業はジョブ型雇用で、メンバーシップ型雇用の日本とは違って配置転換なんかしないから~」などという俗説ははっきり言ってウソだ。この辺りの実例を垣間見るにはゲイリー・ハメル『経営の未来』がホールフーズやゴアテックス、そしてグーグルなどの興味深い実例が豊富で面白い。

経営の未来

経営の未来

 

 

採用で失敗しない、たった一つの冴えたやり方 - 書架とラフレンツェで、職務記述書にはそのポストに必要なスキルのセットが記載されていると説明した。これはもちろん採用にも使用できるが、社内での人材育成計画を立てる上でも重要な指針となる。

イノベーションへの解 』では、経験こそがスキルを生むと説明されており、これが当然であることも先の記事で解説した。つまり企業が職務記述書に基づきある人材を育成しようとするならば、そこに記載されているスキルを必要とするような経験を計画的に社内で積ませることになり、その結果として異動が発生する。このように新人をエキスパートに育てるための計画と指針をキャリアラダーと言う。職務記述書では、ある職種について初心者から専門家まで、それぞれのスキルについておよそ5段階程度にレベル分けされているのが普通だ。

逆に言えば、職務記述書がない状態ではスキルの計画的な育成ができず、適当に異動をしたところで無意味になってしまう。それでは従業員も納得はするまい。これが、メンバーシップ型雇用と称される我が国の企業でも職務記述書が必要となる理由である。

 

残念ながら職務記述書が存在しない企業において自分の価値を高めるには

  • 「俺の考える社内で必要とされているスキル」を推察してそれを自力で育成する
  • 社の内外で同様に珍重される専門性を育成する

の2通りの方法が存在する。どちらにせよ、これができる高スキルプログラマーの価値は35歳を超えても高まり続けるに違いない。

プログラマーの皆様のご健勝とご健闘を祈ります。

*1:現時点でクリティカルパスの計算にはリソースの競合を考慮に入れることになっているので、クリティカルチェーン法とクリティカルパス法の計算方法はほぼ同じです

*2:なんでその分水嶺が35歳なのか、という点については『日本資本主義の精神 』に詳しいです。結論を言いますと、宗教上の理由です

*3:このプロセスを自律的に改善し適切な資源配分を行っていくメタな仕組みが確立した状態が、富の源泉が「価値基準」に移行した状態で、詳しくは『イノベーションへの解』を読んでください

日本人の宗教観はどこまで外国人と違うのか

ISISによりイスラム教の存在感が日本でも(あまり喜ばしくない意味で)大きく膨らんだ。元々日本人にはなじみの薄かったイスラム教だが、その教義と宗教文化の特徴的な面が大きくクローズアップされ、信仰心を持たないとされる多くの日本人には珍しいものとして受け取られている現状がある。
多くの日本人は、自分が無宗教だと思っているらしい。その一方で、日本人には「日本教」とも言うべき日本固有の独特の宗教観があり、それが日本人のメンタリティを強く規定しているとする指摘もある。

日本教」という言葉が使われる文脈は主に2つある。一つは、イスラム教などの他宗教に対比される日本固有の宗教的感覚を指す「日本教」、もうひとつは我が国の仕事観における、あたかも宗教のような独特の精神性を揶揄した言葉としての「日本教」だ。

 

いずれにしろ「日本教」という言葉は山本七平という一人の評論家が作った。山本七平は7、80年代に、主に日本論や比較文化論分野で活躍し、膨大な著作を残した評論家である。彼に対する評価は未だ定まらない部分はあるが、我が国の社会分析において大きな足跡を残した人物のひとりであることは確かだ。
彼が日本教について著した本は何冊かあるが、中でも山本が「最初の日本教徒」と呼ぶ不干斎ハビヤンの思想変遷を緻密に追いかけることで「日本教」の教義とそのご神体を暴き出した『日本教徒』が最も体系的で分かりやすいだろう。これは日本固有の宗教としての「日本教」を正面から扱った作品だ。

日本教徒 (山本七平ライブラリー)

日本教徒 (山本七平ライブラリー)

 

 「日本教」の中心に鎮座まします、その驚くべき"神"の正体はぜひ同書を読んでご確認頂くとして、興味深いのは山本七平日本教の姿を抽出するために用いた手法だ。

不干斎ハビヤンは最初は禅僧だったが、次に洗礼を受けて修道士となりそれなりの地位まで上った後、なんとキリスト教を棄教してキリスト教批判書『破提宇子』を著すに至る。仏教・儒教キリスト教の3宗教に対して当時最高の知識を持つ碩学であったハビヤンは、しかしそれらの宗教を批判するのみで、自分がそれでは一体何を善しとするのかは最後まで明かさなかった。彼が何を受け入れ何を拒絶したのか?――山本は各宗教に対し、ハビヤンが「批判した部分」と「批判しなかった部分」を洗い出し、それらの要素を体系的に組み立てて日本教の正体に迫る。

この「批判によって構成される主張」というアイデアがとても面白い。自説そのものを主張するのではなく、他説への批判を通じて間接的に自説を主張する。一見遠回りな手法だが、日本人にはなぜかとてもなじみのある論の立て方だ。山本はこのような論の立て方自体が、そもそも日本教の教義に則ったものだと主張しているが、この指摘には思わず苦笑いしてしまう。山本は、日本人が持つ客観的・中立的な「科学的態度」は、実は客観的でもなんでもない、日本人独特の価値観であると喝破する。物事にある種の合理性を求める態度そのものが、実はきわめて宗教的な思考なのだ。

そして、現代日本人もまた日本教の敬虔な信者であると納得させられてしまう。どんなに自分は無宗教だとか無神論者だと思っていても、これを読んだ後は堂々と「自分は無宗教だ」とは言えなくなるはずだ。自分が知らず知らずの間に信仰している神が一体どこの誰なのか、あなたは知りたくないですか?


さてもう一つの「日本教」だが、我が国の労働環境において滅私奉公を是とするような「宗教じみた」精神性が未だ根強いことは多くの指摘があり、これがいわゆるブラック企業の温床になっているとされている。山本は『日本資本主義の精神』の中で、まさに日本において「仕事は宗教」であるとまっすぐ定義し、石田梅岩の思想を水先案内として宗教共同体としての日本企業を容赦なく解体していく。

 なぜ、ブラックな環境下でも一生懸命働くのか?年功序列とはいかなる思想的根拠があるのか?サラリーマン35歳定年説の真実とは?どうして、ブラック企業の論理に逆らえないのか?そもそも、仕事はいかなる理由で「宗教」の要件を満たしているのか?――文中で言及されている具体的事例こそ若干時代を感じさせるものの、そこで論じられている諸問題は2015年も変わっていない。1979年の本だとは信じられない。

本書で特筆すべきは「自己責任論」への言及だ。例えば日本人が生活保護受給者や人質に対して口にする「自己責任」論の宗教的なルーツは、日本で独自の発展を遂げた禅宗にあると指摘する。つまり、自己責任論を口にする日本人は、同時に自分の信仰を告白しているのだ。もちろん、当人たちは「自分は宗教など信じていない。これは合理性のある考え方だ」と否定するのだろうけれど。

山本七平自身はクリスチャンであり、また日本史、ユダヤ教イスラム教といった各宗教に対する造詣も深かった。彼の膨大な知識と独自の思想史観が縦横に駆使され、禅宗石門心学、ひいては一神教圏における神との「契約」概念まで持ち出して描き出される日本人の労働観は、慣れ親しんだもののはずなのに未知の国の神秘的な教義を垣間見たような気にさせられる。

 

 

山本のいう「日本教」の中身は上記2冊で理解できるが、更に山本ならではの日本論をもっと読みたい場合は、彼の日本論の集大成である『日本人とは何か』が外せない。

日本人とは何か。―神話の世界から近代まで、その行動原理を探る (NON SELECT)
 

分厚い大著だが、日本という国の創設から天皇制の成立、そして武家社会を経て現代日本に至るまでの「日本人」の精神について包括的に論じている。世界大戦で日本は一体どこが変わったのか?そして何が変わらなかったのか?天皇とは一体何なのか?およそ愛国者を名乗るなら必ず押さえておきたいトピックがぎっしり詰まっている。

 

またこれは山本の作品ではないが、対比して読んで面白いのが橘玲の日本人論である『(日本人)』だ。これは今までの日本人論が「日本と日本以外との差異」をテーマに書かれていたのに対し「日本と日本以外との共通点」に注目してまとめられたユニークな日本人論である。引用されている資料は論考に加えて統計データや意識調査の結果が多く、そこから浮かび上がる日本人の姿は「世俗主義的」で「一匹狼」、「家族の絆が薄い孤独な日本人」像だ。従来の俗説とは異なる、意外な日本人の姿が浮き彫りにされる。

(日本人) (幻冬舎文庫)

(日本人) (幻冬舎文庫)

 

 個人的には、日本人論は山本七平『日本人とは何か』と橘玲『(日本人)』を読んでおけば最低限の理解はできると考えているが、それはこの2冊が論考として優れているからというより、どちらも膨大な先行研究を基礎にしたレファレンスとして利用できるからだ。「日本人とは」というテーマでは多くの論者が多くの説を唱えているが、ただそれらを読み漁るだけでは体系的な理解がしにくい。先の2冊は日本人論をメタ的に考える上で良い参考書となるだろう。

(※ちなみに「日本人論が大好きなのは日本人の特徴」「日本人は『日本と海外』といった安直な二項対立でモノを考える」といったコメントをブコメでも頂いたが、その辺りに興味があるひとはやはり山本七平日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか』が面白い。日本人が「日本/世界」といった二項対立的な国際観を持っているルーツは、ミニ中華思想らしいですよ!)

そうそう、日本人論を読む際には傍らに山川出版社詳説日本史B』あたりを置いておくと理解がしやすい。特に思想政治史を追いかける場合、歴史的にはわずかに見える年月の差が大きな影響を生むことが多い。たとえば、ザビエルがキリスト教を日本に伝えてから豊臣秀吉キリスト教の弾圧を開始するまで約40年のタイムラグがあるが、40年という歳月は3世代のクリスチャンを生むのに十分な時間だった。このたった40年が日本人の精神にどのような影響を与えたのか?その間の出来事を誤解なく追いかけるのに、詳細な教科書は欠かせない。


なお、日本人は外国人と価値観が違うというけれど、では一体どの程度精神的な差があるのか?という問いには『木を見る西洋人 森を見る東洋人』が詳しい。これは気鋭の認知心理学者であるリチャード・E・ニスベットが、いわゆる国民性と呼ばれる、国による価値観や感じ方の違いがどれほど「その国の国民」固有のものなのかを調査した結果だ。日本からも研究者が共同研究に参加しており、公平な視点からの調査結果を読むことができる。

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか

 

 いわゆる「国民性」はわずか数か月で後天的に変化し得るものであること、また女性よりも男性に強く表れる傾向があるなど、興味深い結果がたくさん報告されている。

また国民性や文化の成り立ちを、壮大な人類史を通じて地政学的に活写した『銃・病原菌・鉄』は、学術的な価値もさることながらドラマとしても面白い。読むシヴィライゼーションと評される同書だが、人類のルーツと行く末に思いを馳せてしまうと同時に、世界の平和を祈らずにはいられなくなる。


日本人とは何なのか、我々はどこから来てどこへ行くのか?
これは永遠に答えの出ない問いだが、自分たちについて知ることは翻って、少しでも他者を知ることにつながるかもしれないから、我々の我々自身への興味を大切にしたい。

 

なぜ、お金持に増税してはいけないの?

トマ・ピケティ『21世紀の資本』が大人気で、今のわが国では「格差」がホットな話題のひとつとなっている。そして格差を是正するために累進課税を勧め再分配を強化するべきだ、いやそんなことをするとお金持の勤労意欲が下がって国外に脱出してしまうから駄目だ、という二派は、ピケティ本登場以前も以後も長いバトルを繰り広げている。

お金持により重い税を課すのはいいことなんだろうか?悪いことなんだろうか?

それを判断するには一体、どんな材料が必要なんだろう?


増税される側の人間として、お金持本人は一体どんなことを考えているんだろう?
そもそも「お金持」とは一体どこの誰で、どんなひとたちなんだろうか。
どこに住んで、どういう仕事や生活をしているのだろう?

経済学者の橘木俊昭氏と森剛志氏はこの雲をつかむような問いに対して、日本に住む年収1億円以上のひとたち約6000人に直接アンケートを配布しインタビューを申し込むという超直球突撃取材を敢行した。その成果は『日本のお金持ち研究』という本にまとめられている。

日本のお金持ち研究 (日経ビジネス人文庫 ブルー た 11-1)

日本のお金持ち研究 (日経ビジネス人文庫 ブルー た 11-1)

 

 その結果たくさんの興味深い事実が判明しているが、一部を紹介すると

  • お金持の職業トップは経営者や企業幹部で約43%、その次が医師で約16%。
  • お金持の企業幹部のうち約81%が非上場企業の幹部であり、残り19%が上場企業の幹部
  • お金持の90%が既婚者であり、同一の配偶者との結婚生活が30年を超えるひとが多数
  • お金持の3人に1人は東京都民

直感的に納得できるものもあれば、意外なものもある。他にも、お金持の趣味やライフスタイル、配偶者についての踏み込んだ調査もあり、どこか他人の家庭を覗き見するような面白さだ。

ちなみに「年収1億円」のひとを「お金持」とみなす基準は、1USD=100円である場合には国際的に「お金持(ミリオネア)」であると定義される基準なので、これは理にかなった線引きだ。年収1000万円以上のひとも庶民感覚からいえばお金持なのかもしれないが、言及はあるものの本書の主な調査対象には含まれない。

『日本のお金持ち研究』には姉妹編として、お金持の(主に女性)配偶者に着目した『日本のお金持ち妻研究』やお金持の教育・ライフスタイル分析により重点を置いた『新・日本のお金持ち研究』もある。お金持の奥さんはどんなひとなのか?若いモデル美女なのか、それともやり手のバリキャリ女性なのか?お金持の学歴は高い?お金持の親って、やっぱりお金持なの?いずれも、お金持の実態に生々しく迫り興味深い。


……さて税金の話は、同書の第7章に「高額所得者への課税」が設けられている。ここにはお金持に対する国内外の課税の歴史が簡単にまとめられており、1970年代は我が国の最高所得税率が70%だったが、現在では実効税率で42.1%程度に下がっていることなどが紹介されている。

この章の中で、著者はお金持への累進課税反対論を以下のようにまとめている。

  1. 労働意欲や貯蓄意欲にマイナス
  2. 自由束縛論(自分で稼いだお金を自分で使うのは個人の自由であり、国家が取り上げるべきではない)
  3. 有能で生産性の高い人は社会の宝物だから、低い税率で報いるべき

2と3は考え方の問題なのでそれぞれに意見があるだろうから後回しにするが、とりあえず1については客観的に確認できるはずだ。まず、アメリカや日本では税の累進性と労働時間との間に相関はないとの研究結果がある。『日本のお金持ち研究』第7章では、多くの国において、少なくとも成人男子については税の累進性は労働供給にほとんど影響しないと述べられている。

大体、お金持そうな日本人ということで頭に思い浮かべるのは渡邊美樹、孫正義三木谷浩史……といったひとたちだが、彼らが所得税率が上がったくらいで「あーやる気なくなった……俺は休むし貯金もしないわ」と考えるとは思えない。百歩譲ってそう考えるとして、むしろ是非そうしていただいた方が周囲のひとが幸せになるのではないかと思えるレベルだ。『日本のお金持ち研究』でも、仕事==趣味、生涯現役の仕事大好き人間がお金持には多いことが報告されており、税率が彼らの勤労意欲に影響を与えるとは考えにくい。

また「お金持に重税を課すとお金持が国外退去してしまう」という説もあるが、これもデータからは見えてこない。世界で一番高額所得者の多い国はアメリカだが、OECD『格差は拡大しているか』によると、アメリカの税の累進性はOECD加盟国第2位だ。

格差は拡大しているか −OECD加盟国における所得分布と貧困

格差は拡大しているか −OECD加盟国における所得分布と貧困

 

 もし「所得税率の累進性が高い」という理由でお金持がこぞって国外退去してしまうのであれば、今頃世界で最も高額所得者の多い国は累進性の低いスイスやポーランドになっているはずだ。

なお、同書はOECDが世界の「格差」の現状を人口構造や賃金分布といった観点で分析しているほか、政府の現物給付を含む再分配の効果、世代間の資産移転といった側面からも膨大なデータをまとめた一冊であり、世界規模で格差の現状を考える前にまず材料となる基本情報を提供している。

そもそも、多くのお金持がお金持になった理由はその国、その市場にうまく最適化したからだ。お金持がその国から離れてしまったら、そのお金持は富の源泉から離れることになってしまう。
既に稼ぎまくって引退した資産家はどうだかわからないが、少なくとも今まさに富を生み出し続けているお金持は容易にその土地から離れられないはずだ。もし渡邊美樹が税の累進性が高いという理由で日本から出て行ってしまったら、彼はたちまち今ほどの収入を得られなくなってしまうだろう。いや彼が日本から出ていくのは一向に構わないのだけれど。

ちなみに『日本のお金持ち研究』のアンケートによると、お金持自身の気持としては所得税の累進性強化には反対で、比較的逆進性の高い消費税の増税に賛成するひとが多いとの結果が出ている。


さて、最初にスルーしてしまった考え方の問題、すなわち考え方の問題について参考になる本を挙げる。自分で稼いだお金を自分で使うのは個人の勝手なのか?国家はそこに踏み込むべきではないのか?そして有能で生産性の高いひとは社会の宝物だから、重税なんかでいじめるべきではないのか?そもそも、税金とは勤労に対する懲罰なのか?

これらの問いに対して『私たちはなぜ税金を納めるのか』では、世界各国の税制の歴史から分かりやすく税に関する様々な価値観とその発展を概観することで色んな答えを示している。

私たちはなぜ税金を納めるのか: 租税の経済思想史 (新潮選書)

私たちはなぜ税金を納めるのか: 租税の経済思想史 (新潮選書)

 

 「ぼくのかんがえるさいきょうにこうへいなぜいきん!」のアイデアを先回りしてどんどん打ち砕いてくれる一冊だ。素人が思いつくようなことは大抵既にプロによって考え抜かれている、という原則をしみじみ味わえる。また、貧困をなくすには累進課税と再分配しか方法はないのだと思い知らせてくれる。

 

お金持もそうでないひとも、万人が納得する税制や再分配のあり方はきっと存在しないんだろう。でも、 できるだけ多くの立場と情報が集まれば、今よりは少しだけ納得感のある税制になるかもしれない ---- と思いたい。