書架とラフレンツェ

読書記録メモです。ネタバレがバリバリです。

「シェイプ・オブ・ウォーター」「修道士は沈黙する」ネタバレ解釈

先日「シェイプ・オブ・ウォーター」と「修道士は沈黙する」を観たのだけれど、それぞれの作品解釈について軽くTwitterなどを眺めていたら自分と同じ解釈のひとが見当たらなくてちょっと焦りました。えっこれわたしの解釈がおかしいの??もしかしたら探し方が悪かっただけで同じ解釈はたくさん既出かもしれないし、もしくは本気でわたしの解釈がおかしいかもしれないけれど、とりあえず備忘録も兼ねてここに自説を開陳しておきます。

ネタバレを遠慮なくしています。気にされる方はこれ以上スクロールしないでください。

最初に『シェイプ・オブ・ウォーター』の話をして、次に『修道士は沈黙する』の話をします。

なお、この2作品に関連性は全くないです。単にわたしが最近見たというだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貴種流離譚としてのシェイプ・オブ・ウォーター

 当作品が出た直後、この作品を「美女と野獣」の文脈で解釈したTweetがめっちゃバズっていた。曰く薄幸の美女イライザが異形の怪物と種族の差を乗り越えた真実の愛を築くという筋書だ。

えっでもこれ違うよね?話としては一種の貴種流離譚というかみにくいアヒルの子というか、だってイライザって本当は人間じゃなくて人魚だったってのがこの話のオチでしょ??だからキーイメージの二人が水の中で抱き合うシーンは思いっきりネタバレだったってことで、だからこそクッソーーーやられた感があった。

橋の下に捨てられていた孤児という出生、唖という伏線、そしてラストシーンでカッと開く首筋の傷、あれ鰓だったってことだよね?つまりこれは自分が人魚姫であることを知らなった健気なお姫様が王子様に見つけてもらい、艱難辛苦を乗り越えて無事本来あるべき王国へ帰る物語なのだ。だから半魚人の彼は醜い野獣ではなく最初から最後までれっきとした王子様であり、二人は種族の差を乗り越えてもない。

人魚である彼らにとって醜かったのはむしろ野蛮な敵種族としてのストリックランドであり、彼はさながら高貴なエルフの姫騎士を狙うオークだ。つまりこれは元来、人間の視線で描かれた物語ではなかったということだ。人間の話だと思っていたのは下賤な我々の思い込みでしたねー、ちゃんちゃん。

……という話だと思ってました。

シェイプ・オブ・ウォーター (竹書房文庫)

シェイプ・オブ・ウォーター (竹書房文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

ボルヘスの書いたみたいなミステリだった『修道士は沈黙する

ミステリ作家としてのホルヘ・ルイス・ボルヘスさんは非常に特徴的な作品を書くひとで、個人的に物凄く好きだ。分類としては叙述の一つということになるんだろうけれど、心の中では世界観ひっくり返し系ミステリと読んでいる。思う存分堪能するにはミステリのみを詰めた作品集である『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』がいいんだけれども、単にボルヘスの代表作として名高い『八岐の園』が十分にボルヘスのミステリの魅力を詰めこみそういうのが大好きなひとの心をわしづかみにする。わたしの中では、同作は短編ミステリで史上最高の傑作だ。

ええとつまり、この映画は多分ボルヘス読んでないとちょっと意味が分からない。というかほぼほぼ『八岐の園』のまんまで、道具立てとか演出、ストーリーテリングに手を加えて映画の尺まで伸ばしたといった印象だ。

この作品を宗教や倫理、哲学を絡めた難解な作品だという解釈をいくつか見たが、いやそうじゃない。そういう衒学ネタは全部『八岐の園』にあったそれと同じ目くらましだ。

うまく文章にならないから以下要点を箇条書きで;

  • ロシェがサルスを選んだのは、彼の前職が数学者で数式を理解し一発暗記する能力があると知ったから。自殺についての考えが合うとかいうのは嘘ではないが後付け。
  • ロシェは"例の計画"を潰す気だった。その動機はおそらく、自らの死期を悟り菩提心を起こしたから。非人道的な計画に対する罪悪感は人並みにあったと思われる。
  • ロシェは例の計画を潰す上で、自分ひとり反対しても少数派になり無意味だと思った。かといって自分が直接告発すれば、全世界的に深刻な金融危機に陥る。できるだけダメージを最小限にとどめつつG8の仲間たちに思いとどまってもらうには、自分たち以外の無害な第三者に計画が漏れたと思わせる必要があった。
  • したがってロシェは告解自体をしなかった。告解すればサルスはその内容を永遠に公表しないから。
  • サルスがロシェの自殺の知らせに驚いたのは、告解しないままだ自殺なんて修道僧である彼の理解が及ばなかったから。 上記のロシェの目的を当初サルスは理解できなかった。
  • サルスがロシェとの会話内容を明かさなかったのはそれが告解で戒律に抵触するからではなく、単純にロシェの意図を図りかねたので慎重になっていた。
  • サルスは他の閣僚や彼の友人たちと迂遠な哲学的会話をする中で、次第にロシェの意図を悟り、最終的に告発を決意しラストの説教につながる。この辺りのテクニックがほんとボルヘス

もうこのサルスのことを著書で知りましたとかいうくだりがかなりボルヘス味。しかも本作はロシェはサルスを信じて死んでるので、はぁとうとい…… 

いやはや、野心的なミステリでした。そもそもの謎がメインの謎でなかったっていうかそういう話だったのー?!っていうやつ本当に好きです。神秘的・哲学的な道具立てとは裏腹に、オチの実もふたもない俗っぽさとのギャップがツボ。

ただ映画としては起伏に欠けたので慣れてないひとは眠たかったかもな……

 

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 
ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件

ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件

 

発達障害、逃げ癖、依存……その「生きづらさ」は治るかもしれない

本稿で言いたいことは

  • 発達障害やパーソナリティ障害などと呼ばれている精神疾患の一部は誤診で、本当は「複雑性PTSD」と呼ばれる後天性の病気
  • 複雑性PTSDは最長でも数か月で根治する療法がある。
  • (複雑性)PTSDは脳の機能障害であり、「考え方を変える」認知療法やカウンセリングではなく身体を介して脳に直接アプローチする療法が効果を上げている。

の3点です。でもわたしはどちらかと言えばむしろ患者側で精神科医ではないし、これから書くことは読んだ本の受け売り。可能であれば id:p_shirokuma 先生に詳しいお話をお伺いしたい。本当の話なのだとしたらまさに福音だけれど、真偽はどうかご自分でお確かめください。

 

まず複雑性PTSDの話から

詳細は下記の本に詳しい。文庫で読みやすい。

 PTSDというのは戦争や災害などの大きなショックで心に難治性の傷を負った疾患だけれど、複雑性PTSDはそういう大事件を原因としない。いじめ、虐待、その他長期にわたる対人関係上の不具合を原因とするPTSDで、罹患者本人がその原因を明確に覚えていない場合も多い。

また、明確な「加害者」を見いだせない場合も多い。もし子どもがもう少し図太い性格だったら・親がもう少しおおらかな性格だったら精神疾患にまで至らなかったと思えるような、第三者から見たら実に些細な事柄が原因となることもある。

ただ、これは決して患者が甘えていたからとか弱かったからということではなく、飛行機から落ちても無傷のひともいれば50㎝の高さから落ちて亡くなるひともいる。確率や運不運の問題と解釈した方がより正確なのではないかと思う。つまり、「被害者」「加害者」どちらを責めても問題の解決にも再発の防止にもならないのだ。重要なのは治ること、症状が改善することであって、犯人探しではない。

さて複雑性PTSDはその症状の顕著な特徴のひとつとして、自分や他者への強い不信感がある。その結果

  • 強い見捨てられ不安
  • 対人過敏
  • 記憶障害
  • 親しくなることへの恐怖や忌避感
  • 不眠や怒りの爆発といった覚醒亢進症状
  • 他者を敵味方や上下関係で見る極端な二元思考
  • 自己破壊的・衝動的行動
  • 失感情症や離人症

といった対人関係上の問題が起こり、複雑性PTSDと診断されない場合はそれぞれの症状に合わせてアダルトチルドレンとか境界型パーソナリティー障害などと呼ばれたりしている。

また、更に研究がすすめられた現在ではADHDASDといった生まれつきの発達障害とされているものの一部も、幼少期に受けたトラウマが原因で生じた脳の機能障害によるものとする指摘もある。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

 

後述するがトラウマ体験は何歳の時に受けたものかで症状が異なり、ごく幼い頃のものの場合は落ち着きや他者の表情を読む能力といったものが失われる。発達障害は純粋な先天性の障害ではない可能性もあるのだ。

本書の著者であるボストン大精神科教授のベッセル・V・D・コークらはPTSD患者の脳をfMRIスキャンし、トラウマ体験を思い出している時の患者の島や頭頂葉や前帯状皮質といった「身体感覚と情動や思考」を統合し、コントロールする領域がマヒしていることを発見した。

このような結果の説明は一つしかありえない。これらの患者は、トラウマ自体への反応として、また、ずっとあとまで残っていた恐怖に対処する中で、特定の脳領域の機能を停止することを学んだのだ。

 

 - ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』P.152 紀伊国屋書店, 2016

つまりPTSDとは脳神経医学的に見ると「恐怖によって身体感覚を喪失し、身体を意図通りに動かすことができなくなる脳機能障害」なのだ。

この見方は従来からのPTSDの概念にも合致する。 

本書で述べる「コントロール感覚」を簡単に定義しておくと、「自分が自分の人生をある程度コントロールできている」という感覚のことである。

(中略)コントロール感覚を支える基本は、自己・他者・世界へのある程度の信頼感である。「自分がなんとかできるだろう」「他人が何とか支えてくれるだろう」「まあそんなにひどいことも起こらないだろう」という、暗黙の信頼感があってこそ、私たちは毎日を何気なく生きることができる。

トラウマを体験すると、この基本的な信頼感が失われる。

 

水島広子『トラウマの現実に向き合う』P.46-P.47 創元社, 2015 

 脳のマヒによって意図通りに思考や感情や身体が動かせなくなったPTSD患者はパニックに陥り、それが更なる恐怖と不信感、無力感を生む。このサイクルを自覚しようにも、身体感覚の知覚や統合ができなくなっているので何が起こっているのか自分では分からない。これがPTSDという病気の実態なのだ。

それで、どうやったら治るの? - 身体で治すトラウマ治療

PTSDが脳のマヒということは、そのマヒを物理的に除去すれば治るのではないだろうか?こうした考え方に立つと、傾聴やトークセラピー、認知療法など「身体に触れない」方法でPTSDを治そうとする方が非合理的に思えてくる。前掲書では

PTSDに対する認知行動療法の臨床研究中、公表されたうちで最大規模のものでは、三分の一を超える参加者が脱落し、残りの人々には数多くの有害な副作用があった。

 

 - ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』P.362 紀伊国屋書店, 2016

とバッサリだ。そして新たなトラウマケアとして以下のようなものを挙げている。

  • マインドフルネス
  • EMDR(トラウマ体験を思い出しながら眼球を一時間ほど左右に動かし続けることで記憶の再統合をはかる)
  • ヨガ
  • 副交感神経を刺激するマッサージやEFTといったタッピングセラピー
  • ニューロフィードバック

他にも紹介されている療法は色々あるが、個人的にはEMDRとヨガの劇的な効果に目を奪われた。

EMDRはどちらかと言えば成人後にトラウマ体験をしたひとやトラウマ体験を比較的はっきり思い出せるひとに向いており、早ければ1回で治療が完了する。長くても10回前後で充分な治療効果が表れ、日本でも専門の医療機関で受けられる。

また、ヨガはごく幼少期にトラウマ体験をしたひとや、原因となるトラウマを思い出せないひとに向いているようだ。トラウマケアに特化したヨガ・プログラムを実践すると、早くて一週間強、長くても一年弱で充分な治療効果を発揮し、ASDADHDといった発達障害にも効果を発揮する。詳細は以下の本に詳しい。

トラウマをヨーガで克服する

トラウマをヨーガで克服する

 

 何にせよ重要なのはPTSDは心だけの問題ではないということだ。トラウマは物理的な脳の機能障害をもたらし、その結果数々の感情や思考といった"こころ"の不具合を生む。我々は心の問題は心にアプローチすることで解決しようとしがちだ。だからカウンセリングや認知療法のみでなんとか対処しようとする。

しかしその疾患の真の原因は脳に発生した器質的な障害だから、効果的に治療しようと思ったら脳そのものにアプローチする必要がある。薬物療法は脳に直接アプローチする方法のひとつだが、あくまで対処療法でしかなく、脳の構造そのものを治療する訳ではない。

 

なお、家族や親しいひとがPTSDを罹患した場合、接し方や考え方を知る上で以下の本が参考になる。

 

わたし自身のセルフ人体実験結果としては記憶の再統合とEFTは結構効いた。多分これは神が人体に用意しておいたデバッグバックドアではないか。今はヨガに興味があります。

もし興味があれば、ぜひ自分に合った方法を調べてみてください。一生つらい思いをする必要がないかもしれないなんて、実に素晴らしい話だと思いませんか?

 

 

「何度言っても分かってくれない」を精神医学的に解決する

本当は「自分の機嫌を自分でとる方法」の参考になる本を紹介しようと思っていたのだけれど、違うテーマになりました。でも、「自分の機嫌は自分で直したいが、他人の所為でなかなかうまくいかない」と考えている方の参考になると思います。

 

家族や職場の同僚・上司になかなか自分の意図を汲んでもらえない、何度言っても分かってもらえない、そうしたことがストレスになり、自分の機嫌を自分でとれと言われても難しい場合がある。本稿ではそういう問題に精神医学的に正しい方法で対処するための参考書を紹介する。

人間関係の調整、円滑なコミュニケーションそのものの成立をもって治療法とする精神療法があり、対人関係療法と呼ばれる。わが国では水島広子先生が第一人者で、実のところ「この本読め」でわたしの言いたいことは終わる。

自分でできる対人関係療法

自分でできる対人関係療法

 

よくあるゆるふわで断片的なコミュニケーション本とは一線を画す、精神医学的にエビデンスのあるコミュニケーション改善の方法がその根拠とともに理論的かつ濃密に説明されている。問題の原因となる「貧弱なコミュニケーション」の実例と改善の方法がふんだんに紹介されていて、こんなことまで言語化が可能なのかと驚かされるものもある。取り上げられている事例は

  • 夫婦関係
  • 嫁姑関係
  • 親子関係
  • 職場の上司との関係
  • ママ友との関係
  • やたらとプライベートに踏み込んでくる友人との関係

といった大抵の問題になりがちな人間関係を網羅しており、自分を悩ませる相手との関係に合致したものも見つけられるはずだ。

少し長くなるが一例として、夫に隠れて子供を虐待している母親(イクジさん)と治療者(私)との会話分析例を引用する。

私「お連れ合いは、イクジさんが(虐待で)悩んでいるということを知っているんですか?」

イクジさん「そう思いますよ。私、ここのところ家では笑顔も出ませんから。食欲もなくて痩せたし」(自分の気持ちが相手に伝わったと思い込んでいる)

(中略)

私「先ほど、仕事が忙しいから悩みを聞いてくれないとおっしゃいましたが、聞いてくれなかったのはどんなときだったのですか?」

イクジさん「この前、思い切って『私はよい母親ではないような気がする』って言ったんです(曖昧で間接的なコミュニケーション)。そうしたらまともに取り合ってくれなかったんです」

(中略)

イクジさん「ああ、やっぱりこの人は私の悩みなんて聞きたくないんだな、と思ってあきらめました」(相手の言い分を理解したと勝手に思い込む)

私「そう伝えたのですか?」

イクジさん「いいえ、言っても無駄だと思ったので、何も言いませんでした」(沈黙、つまりコミュニケーションの打ち切り)

同書ではこの会話に続けて

このように貧弱なコミュニケーションでは、イクジさんが深刻に悩んでいるという事実すら夫には伝わっていないだろうということを理解してもらいました。

とある。つまり、綿密に各発語にダメ出しをした上で改善策を提示しているのだけれど、多くの方にとって上記の会話はどこがダメなのか分からないレベルではないだろうか。

同書では自分の言いたいことを誤解なくはっきり伝え、かつその際に相手を傷つけない方法を細かく説明している。また夫婦を含めた家族関係に特化した対人関係療法解説書として以下のものもあるので、「自分のストレスの種は無理解な家族だ」と思っている方には併せて強くお勧めする。

対人関係療法で改善する 夫婦・パートナー関係

対人関係療法で改善する 夫婦・パートナー関係

 

詳細はこれらの本にあるが、対人関係療法では家族や配偶者などの「重要な他者」との関係の質を重視し

  • 言語によるコミュニケーション方法の改善
  • 役割期待」という自分や相手への意識的・無意識的な期待を見直す
  • 互いの役割期待のズレの程度を推しはかり、調整する

といったプロセスによって問題を解決していく。

なぜ、何度言っても伝わらないのか?自分の言い方のどこが悪いのか?こんなひとたちと付き合い続ける中で、どうやったら自分の機嫌を自分でとっていけるのか?そうした悩みを持つ場合、水島広子先生の本を片っ端から読んでいくと大いに参考になる。

「怒り」がスーッと消える本―「対人関係療法」の精神科医が教える

「怒り」がスーッと消える本―「対人関係療法」の精神科医が教える

 

 

そもそも対人関係療法って?

対人関係療法については前掲書を読めばわかるが、 ここでも軽く解説しておく。対人関係療法とは多くのストレスの原因が対人関係、それも「重要な他者」との関係にあるとの前提に立ち、それを改善することで各種の精神疾患に対処していく精神療法である。

「重要な他者」とは具体的には家族、特に既婚者の場合は配偶者であり未成年者なら親のことだ。そしてその次にプライベートの友人や親戚があり、最後に職場の同僚など仕事上の人間関係がある。この重要度の順番は原則として覆らない。

以前、会社員のメンタルヘルスに関わっている方たちを対象にした講演でこの図を用いて説明したところ、「この図は一面的すぎる。会社員の中には、もっとも親密なところに仕事上の関係者がいるケースもあるはずだ」という意見が出されたことがあります。私は、「そういう状態がすでに不健康なのです。家族と仕事上の関係者が逆転してしまっていることが、精神的なもろさをつくってしまうのです」と説明しました。

--水島広子『自分でできる対人関係療法』2004, 創元社 (太字は引用者)

この考え方はアドラー心理学における「全ての悩みは人間関係の悩みに還元され、究極的には真の幸福は「わたしたち」の間に築かれる愛をおいてありえない」という考え方と類似している。

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

アドラー心理学に親しんだひとなら、対人関係療法の「重要な他者」概念を理解しやすいだろう。

「自他の課題を分離する」というアドラー心理学のテーマも、対人関係療法における「役割期待の調整」に類似を見ることができる。アドラー心理学の実践編として対人関係療法にアプローチしてもよいかもしれない。 

ネトウヨとブサヨとで話が通じない理由 『社会はなぜ右と左にわかれるのか』

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

(本書は主にアメリカの話ですので、日本で言う保守主義やリベラル等といった言葉とは意味合いが違う場合があります)

 

 大脳生理学や進化論の観点から、人間の倫理観や正義感、政治的信条に差異が生じる理由を探る一冊。

スティーブン・ピンカーリチャード・ドーキンス、アントニオ・ダマシオ等の議論の延長線上にあるものであり、事実本書の一部はピンカーによる下読みが入っている。

またドーキンスはたくさん引用されるものの、特に第11章「宗教はチームスポーツだ」はほぼ丸々『神は妄想である』の批判?になっている。つまり、宗教はウィルスのように伝染するミームであることを認めつつも、それは人類の集団的淘汰に有利に働いたという主張が展開されている。

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

 

 他にもいくつかの興味深い主張をまとめてみる。

人間の正義感は味覚のようにハードコーディングされている

人間には生まれつき「甘い」「塩辛い」といった味覚があるように、正義感も生まれつき備わっている。そして味覚がそうであるように、正義感にもいくつかの種類があり、その強弱や嗜好、それを感じ取るトリガー条件は生まれ持った特徴のほか、生育環境で変化・成長していく。

これらの正義感はいずれも人間が進化していく過程で集団を志向し、その結果人間の身に固定された物だ。

人間の正義感の軸は以下の6種類:

  1. ケア/危害 ……幼子に対する庇護心「自ら身を守る方法を持たない子どもをケアすべし」
  2. 自由/抑圧……個人の自由意思の尊重、あるいは集団への協調の重視
  3. 公正/欺瞞……利己的・詐欺的な行動への嫌悪感「他人につけ込まれないようにしつつ協力関係を結ぶべし」
  4. 忠誠/背信……共同体への帰属意識「連合体を形成し維持すべし」
  5. 権威/転覆……目上の者への尊敬「階層的な社会のなかで有利な協力関係を形成すべし」
  6. 神聖/堕落……清潔志向・穢れた物への忌避感。元は毒のある食物や病原体を避けるためのもの

一般的に保守主義者は上記6つへの志向がほぼ均等に割り振られているが、リベラルは前半3つへの志向が強く、後半の3つはほとんど気にしない。またリバタリアンは2、3への志向が強く、他のものを重んじない。

また、これらの感情が生じるトリガーには文化差がある。例えば可愛い動物への庇護心は1の軸が拡張されたものだが、具体的にどういう動物に対して発動するかは文化圏によって異なる。6の軸もまた、何をもって「穢れ」とするかにいかに文化差があるかは言うまでもない。

これらの軸の組み合わせによって浮かび上がる個々の正義感を、本著では「道徳マトリックス」と呼び、原則として個体差があるものとしている。

ヒトの気持が解らないのはリベラルの方?

これを受けて、相手の政治的立場を想像させると興味深い結果になる。

保守主義者にリベラルの賛成しそうな政策を推測せよ、という課題を出すとかなりの好成績を出すが、リベラルは保守主義者が弱者への保護政策に反対するだろうという誤った推察をした。

正義感の6軸は実運用上は相反するものもあるから、自分の重視しない他の軸を重視している保守主義者を見るとリベラルは自分の軸が軽視されたように感じる。しかし、これは誤った認識。

雑食動物のジレンマ

そもそもこのような正義感の違いがなぜ生じるかというと、人間が雑食動物だったことに端を発する。

雑食動物であった人間は色んな未知のものを食べられるかどうか検証し、エサの種類を増やして反映していく必要があったが、未知のものばかり食べていると毒に当たって死ぬ確率が高まってしまう。このジレンマを解消するため「未知のものを積極的に食べたがる好奇心の強い個体」と「よく知っている物しか食べたがらない保守的な個体」の2傾向が現れるようになった。

こうした違いは生まれつきに存在し、生育環境がその強度や発現条件を規定していく。これは脳内の活動状況や放出されるホルモンのレベルで(つまり、器質的に)異なる。

一般的に、好奇心が強い個体はリベラルになりそうでない個体は保守主義者になる傾向がある。

理性は感情という巨大な象に乗っている小さな御者にすぎない

人間の意思決定にはまず感情がある。特定の状況を前にして人間は即座に何らかの神経伝達物質を放出し、それが対象への好悪を規定する。理性はそれを正当化するための理屈を捻り出し感情を保護するのが第一の仕事で、「感情」という象を力づくで制御する力は「理性」というちっぽけな御者にはない。

ただ理性が感情に対してまったくの無力かというとそういう訳でもなく、御者が象を知り象の気持に寄り添うことで象を目的地に導けるように、理性の方が感情の先手を打ち感情を優しく「説得」することで考え方をより良い方向に変えられる。象は賢いのだ。

(この辺の議論は、個人的には引用されている文献の他『ファスト&スロー』が理解に役立った)

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 宗教や伝統はどこまで社会の害悪か

リベラルの多くは宗教や伝統といったものへのコミットを嫌うが、こうしたものへの嗜好が人間の多くに備わっているのは、それが人間という種の進化に有利に働いてきたという実績があるからだ。事実、完全な功利主義・利己主義の集団よりも宗教的価値観に基づいた利他主義を持つ集団の方が結束が固く生産性が高いという調査結果もある。

著者のジョナサン・ハイトは以前はバリバリのリベラルで、保守主義者のことを物の分からない人間たちだと思っていたが、彼らが自分たちとは別の人類にとって有益な価値観に依拠していると知って見方が変わる。

人間は社会的な生き物であり、人間の集団から離れては生きられない。ならば集団を維持するために必要な慣習であれば、それが一部では不利益を生むとしても闇雲に攻撃するべきではないのではないか?

このように考えてみると、あたかもリベラルは、たとえコロニーを破壊することになっても、その構成メンバーたるミツバチ(実際に助けを必要としている)を救おうとしているかに見える。そのような「改革」は、結局社会全体の福祉を損ない、リベラルが助けようと思っていた犠牲者に、さらなる害を及ぼすことすらある。

(P.474『第12章 もっと建設的な議論ができないのか?』)

 人間が生まれつき多様な主義主張を持つようハードコーディングされているのは、それが人類という種の繁栄に役立つからだ。

中国哲学における陰と陽は、外部からは対立しているように見えるが、実際には相互に依存し合う、補完的な二つの事象を指す。夜と昼、寒と暖、夏と冬、男性と女性は敵同士ではない。

(P.451『第12章 もっと建設的な議論ができないのか?』)

理解できない考え方を持っている人間は自分の足りない部分を補うために生まれてきてくれたのであり、敵ではない――そう考えるようにすると、少しはうまくやれないだろうか?

ロドニー・キングが言ったように、誰もが、ここでしばらく生きていかなければならないのだから、やってみようではないか。

(P.486『第12章 もっと建設的な議論ができないのか?』)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高速で論文がバリバリ読める落合先生のフォーマットがいい感じだったのでメモ


(図書館学系の話題でもあるからちょっと悩んだけれど、文献読解全般に関する内容だからこちらへ)

 

既に日々論文をバリバリ読んでいるひとには今更な記事だろうけれど、分野ごとの違いもあって興味深かったのでざっくり記録する。

 

論文を大量に読む際に、頭から几帳面に読んでいると時間がどれほどあっても足りないし、後から「こんなことが書いてあった論文なんだったっけ?」という問題も発生してしまう。
研究者の皆様はMendeley などの文献管理ツールをを用いていることが多いかとは思うが、それでも論文の読み方そのものに工夫をすればインプット/アウトプットの効率が圧倒的によくなるので、やってみるにこしたことはない。
その工夫とは何かというと、論文を読むときに「特定の問いに集中して読む」というものだ。学術論文は分野ごとの違いはあれ、必ず特定の流れに従って構成されている。そこで要点のみに注目して読み、他の事項を捨てることで高速かつ要点を踏まえた論文の読み込みができるのだ。

www.slideshare.net

以下に紹介するものは落合陽一先生が「先端技術とメディア表現1 #FTMA15」  のスライド65枚目で紹介していた論文まとめのフォーマットだ。実験論文用だが、以下のような構成になっている。

f:id:aliliput:20150804120029j:plain

  1. どんなもの?
  2. 先行研究と比べてどこがすごい?
  3. 技術や手法のキモはどこ?
  4. どうやって有効だと検証した?
  5. 議論はある?
  6. 次に読むべき論文は?

このフォーマットに従って問いを埋めていくだけで、論文ひとつの内容をA4半分~1枚に圧縮できる。これで出来上がるものはその論文の「オレオレ要旨」ともいえるものだ。

論文にはほぼ必ず要旨がついているものだけれど、論文によって要旨の記載事項はバラバラだから要旨をそのままインデックスには使えない。また、普段なじみのない作法で書かれた他分野の論文を読む時には、自分ならではのフォーマットに従って読んだ方がより素早く理解でき利用すべきポイントも簡単に見いだせる。

こうしたフォーマットは実験論文に適用するもの以外にも考えられる。例えば、理論研究だったら下記のようなものがあり得る。

  1. どんなもの?
  2. 批判されている理論は何?
  3. どういう文脈・理路をたどっている?
  4. 対象となるスコープにおいて網羅性と整合性はある?
  5. 議論はある?
  6. 次に読むべき論文は?

このフォーマットに従うと、オレオレ要旨だけではなく自動的に文献批判の骨子までできてしまう。

また「集めた文献をどう整理すべきか?→知のフロント(前線)を浮かび上がらせるレビュー・マトリクスという方法 読書猿Classic: between / beyond readers」では、レビュー・マトリクスというフォーマットを用いての文献整理を紹介している。こちらは医療・疫学分野で役立ちそうなフォーマットで、各論文を横断的に比較できる強力なものだ。このフォーマットの出典はこちらの本。

看護研究のための文献レビュー―マトリックス方式

看護研究のための文献レビュー―マトリックス方式

  • 作者: ジュディスガラード,Judith Garrard,安部陽子
  • 出版社/メーカー: 医学書院
  • 発売日: 2012/05
  • メディア: ?行本-精装
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 これらの読解用フォーマットは、論文を書く際のフォーマットとは必ずしも一致しない。著者にとって重要な文脈や要点が、読者にとってもそうだとは限らないからだ。

個別のテーマに従って文献を収集している場合、特にこうしたフォーマットが威力を発揮する。ある特定のテーマの文献研究用に特別なフォーマットを作成するのもよい。著者が想定した論文の読み方にはならないかもしれないが、論文は娯楽小説ではなくて問題解決のために読まれるものだ。著者の考えた論の流れに乗っかったままでいると、「結局、自分のテーマにとってこの論文はどういう意義があったのか?」を見失ってしまうこともある。明白な文脈を断ち書いていないことを見出すような妄想力を発揮さえしなければ、論文の読み方は各人の自由で構わない。


この世に「論文の書き方」と銘打った、書く側の視点に立った論文構成法はたくさん紹介されている。しかし論文の読み方という観点ではそれほど独立した資料がないようだ。この点、書誌学的にも興味深いところなので、また追って調べてみたい。

それと、もし皆さんが「自分はこんなの使ってる!」というのがあればぜひ教えてください。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

 

 

それでもあなたは弱者に仕える - エヴァ・フェダー・キティ『愛の労働 あるいは依存とケアの正義論』

先生にこの本をご紹介いただいたのはもう半年以上前のことでしたね。 すっかりお返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

 

 わたし自身がフェミニズム厚生経済学に疎いため、著者の論点をつかむのに時間がかかりました。結局、同書に多く引用されていた以下のアマルティア・センと並べて読むことになりましたので、本稿もこの2冊に拠っての読書感想文とさせていただきます。

不平等の再検討―潜在能力と自由

不平等の再検討―潜在能力と自由

 

 『愛の労働』は依存労働、いわゆる赤ちゃんや老人、身体障害者などといった「社会的弱者」をケアする仕事に携わるひとの権利に関する議論です。彼らは誰かに”依存”しなければ1日たりとも生存ができませんから、社会の中で彼らを生かそうとすると、かならず彼らのケアに携わる依存労働者を必要とします。多くの場合そのような仕事に携わるひとは女性ですから、同著の中には多分にフェミニズムの文脈からの視点が導入されています*1

先生は本書の前提となっていた動機、つまり「社会は再生産するべきなのか?」とう点に引っ掛かりを感じると仰られましたね。人間はみな子どもを持ちたがっているのだから、それを支援するべきだという前提は正しいのかどうかと。もし誰も子どもなど要らないと思う世の中であればそれはそれで構わないと本気で思うから、自分は本書の問題意識をいまいち共有できないと話しておられましたね。

実のところ、個々人の再生産への志向にはバラつきがあり、誰しもが子どもを持ちたい訳ではないという先生のご指摘はわたしも正しいと思います。そして、どのような人生を選択しようとも社会は平等にその生き方を支援するべきだとも思います。ただ、そのような価値観を持ったうえでなお、社会の再生産に対する支援は必要不可欠なものだと思います。それはとりもなおさず、同書で指摘されている自分とは異なる世代に対する2つの倫理的義務を理由とするものです。

1つは、子どもは生存と成長に必ず大人のケアを必要とするという事実、2つ目は、人間は老いたらやはりほぼ確実に他者のケア - 今度は自分より若い世代からのケアを必要とするという事実です。これらの世代間ケアは必ず一方通行なものであり、「子どもが親の介護をすることで親に育ててもらった恩返しをする」という文脈で解釈されるべきではありません。子どもの保育と老人の介護とは異なる性質の仕事であり、どちらかがどちらかの埋め合わせになったりはしません。それに、どちらも親-子以外の無数の支援者の存在があって初めて正常に機能するものです。親-子のたった二人だけで育児や介護が成立するという認識は誤っています。ですから、このケア責任は社会全体で担われるべき性質のものであり、自分が育てられた一方で誰も育てないのはフリーライドであるし、いつか自分をケアすることになる次世代を育成しないのは後先のリスクを考えない不合理行動ということになります。この2つの事実が存在する以上、社会に生きる人間は自分とは異なる世代に対するケアの倫理的義務を負う、という主張にわたしは納得します。

人間が社会を作りそれに参加する理由は、それによって自分の目的が最大限達成しえるからだという極めて利己的な動機であったとしても、それが成立する基盤そのもののに世代の再生産が組み込まれているのだとすれば、再生産に協力する方がより効用の総量を増せるはずです。そこに賛成できないのであれば、そもそも社会制度に関する生産的な議論が成立しないのではないかとも思います。

 

さて、本書での指摘でわたしが個人的に興味深かった論点を2点お話します。1つ目は、依存労働がなぜ低賃金で社会からの正当な評価も得られないのか?という問題です。

依存労働はその性質上、例えば子どもや障碍者、老人などといった社会的弱者を直接の受益者とします。彼らは社会的弱者であるが故に、自分たちをケアする依存労働者に対して自力で十分な報酬を支払うことが(多くの場合)できません。社会的弱者をケアする報酬は第三者、つまり多くの場合「親の財布」や税金から支払われることになり、これが依存労働の過大な負荷に対してあまりにも劣悪な待遇となる搾取の構造を生みます。第三者は直接の受益者でない以上、提供されるサービスの正確な評価が不可能であり、できるだけ報酬を低く抑えようとするインセンティブが働きます。

モノの値段が需要と供給のバランスで決まる、というウソは、今では多くの経済学者も指摘するところです。モノの値段に需要と供給が関係ないとは言いませんが、それ以前に市場における「相場」と顧客の経済力の方がはるかに大きな価格決定要因です。 

プライスレス 必ず得する行動経済学の法則

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 もとより24時間の見守りを必要とするような依存労働において「正当な報酬」など原理的に支払えるはずもありません。ましてやその顧客が社会的弱者ともなればなおさらです。

市場原理による価格の決定が正義であるためには、顧客にそれだけの支払い能力がある必要があります。産業としての依存労働が構造的に破綻している以上、この産業に従事する人間の権利は市場原理以外のロジックで守られなければいけません。そしてそのロジックは必ず成立させないといけません。なぜならば、依存労働という産業は社会に不可欠なものだからです。

社会に不可欠な産業であるにも関わらず、市場原理によって正常な運営が成り立ち得ない、という産業が存在するという指摘は非常に興味深く思いました。この問題は経済学においてどのように解決が試みられるのでしょうか?少なくとも、古典経済学の埒外であることは確かなようです。

 

2点目に興味深かった論点は「ドゥーリア」というアイデア、つまり、「誰かをケアする権利の保証」という発想です。

同書内で指摘されている通り、ケアを必要とする人々の「ケアを受ける権利」は社会で既に広く認められ、そのための支援策もたくさん用意されてきました。介護施設や保育施設、デイケア、専門家の派遣等といった支援は未だ十分ではないにしろ多く用意されていますし、今後も増加する傾向にあるでしょう。その一方で、ケアを提供するひと - 多くの場合家族 - の「ケアをする権利」の保証は未だ不十分なものがあります。それでも、我が国はまだ「家族の世話は家族で」という発想が良くも悪くもありますので、法的な育児休暇や介護休暇の認定が行き届いている方のようですね。そこはアメリカと事情が違うのだなと思いました。

ただ、誰かに対して依存労働を提供しているひとは原理的にその分の権利が制限されている、アマルティア・センの言葉だと「機能を達成するための潜在能力」が制限されている状態にあるということは確かです*2。それが何であるかという指摘は本書には具体的にありませんでしたが、そのための社会制度が必要だという指摘は有意義です。その上で、ケアサービスのインフラを整えつつも「愛する人をケアする権利」をも守る、という姿勢は重要であると思います。

ただ我が国の場合「家族の絆」の美名の元に、劣悪な家族間依存労働環境の中に個人を押し込めるような意見が幅を利かせそうで大いに危険です。それを防ぐためにも、ケアを提供するひとの権利を守るという姿勢の中身はより具体的に議論された方がよさそうです。

 

 わたしからは以上です。また先生のお考えをお聞かせいただければ幸いです。

 

 

*1:ただし、「なぜ依存労働者の多くが女性なのか」という問題についてはそれを示す事実の列挙こそ豊富だったものの、それほど掘り下げがありませんでしたね。その辺りは大した理由がなくとも、差別的な状況が社会の最適解となることはあり得る、という松尾匡先生の『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼 (PHP新書)』というご説明を受けていたのでそれほど引っかかりはしませんでしたけれども。

*2:see also『ラーニング・アロン 通信教育のメディア学』他人に学習機会を提供するために自分の学習機会を削るひとの話が出ています

暴力・愛・没入 -- 井戸ぎほう『夜はともだち』

偶には腐女子らしくBL本の感想でも。 

夜はともだち (POE BACKS Babyコミックス)

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 男子学生2人のBL。真性ハード系ドMの無口な飛田くんと、本当はSでもなんでもないのに飛田くんのために彼を暴行し続けて病みかける真澄の話。あらすじの説明は以上で、ここから先はネタバレを含む感想文です。もっと詳しく本作について知りたい方はこちらをどうぞ。

honz.jp

 

これは男女間では成立が難しい物語だ。男性二人の恋愛を主題にするはっきりとした理由が本作にはある。男女間での暴力、DVを取り扱った作品は非常に多く、また現実世界でもよくある話とされている。大抵暴力を振るう側は男性であり、振るわれる側は女性だ。非常によくある話だからこそ、その物語は類型化されて多様な派生的イメージを持つ。例えば「差別」や「心の病」、「貧困」などなど----こういうものを描くために男女間の暴力が題材とされることも多い。
また男女を逆にした場合、それはそれで別の派生的イメージを生む。粗暴な性格であったり、あるいは身分の高い女性が男性に(広義の)暴力を振るう物語もたくさんあり、それは往々にして女性側の活発なキャラクターイメージと男性側の大人しい性格の対比、あるいは苦労といったものを描くために導入されるエピソードとなる。
いずれにしろ親密な異性間に持ち込まれる暴力は、男女間の乗り越えられない性差(厳密に言うと体格差)というものを前提としている。その差が暴力を振るう側と振るわれる側に非対称性を持ち込み、暴力は自明な搾取の手段となる。そういうのが、本作を成立させる上でかなり邪魔な要素となってしまうのだ。


飛田くんと真澄はどちらも健康な男子であり、二人の間には体格差がほとんど見られない(実は設定上飛田くんの方が真澄よりやや身体が大きいらしいけれど)。お互い日本人の学生なので、社会的地位の差などといった要素も存在しない。まったく対等な関係における暴力というものを描くのにこれ以上の設定はなく、それが本作において暴力を媒介として成立する愛、というテーマを純粋な形で浮かび上がらせている。
真澄の飛田くんに対する一方的な暴力が成立している理由は、単に飛田くんがそれを望んでいるからだ。それどころか真澄は暴力的な関係など望んでおらず、飛田くんと「普通の」関係を築こうとして苦悩する。しかし飛田くんの性的嗜好はゆがみまくっているので、暴力を媒介としない愛を彼は受け取れない。

「好きなひとに暴力を振るうなんて嫌だ」と思う真澄と「好きなひとに暴力を振るわれたい」と願う飛田くんの気持は最後まで妥協も止揚もされず、ラストシーンでも性的嗜好においてこの二人はこれからも一致をみることはないだろうと予想される。何しろこの二人はそれを理由に一旦破局しているのだ。つまり性愛の物語としては、本作はバッドエンドだ。正直、この二人がこれから先の人生において性的嗜好の不一致を理由にまた破局したとしても「せやな」以上の感想はない。
ただ暴力の媒介によって培われた「愛」の物語として本作はハッピーエンドだ。少なくともこのラストシーンをバッドエンドと受け取る読者はいないだろう。最後の最後で、真澄は飛田くんが性的パートナーとしてのみでなく、自分という人間を求めてくれていたことに気づく。その表象においてまったくかみ合わなくても、それでもなお二人の間で愛は成立していたのだ。


物語は真澄視点で進行するので、真澄が飛田くんに対して抱く恐怖は明確に読者の前に提示されている。それは他人に暴力を振るうことに対する恐怖であったり、理解できない性的嗜好に対する恐怖であったり、そして何より「自分は愛されていないのではないか」という恐怖だ。例え飛田くんの望みとはいえ、彼に暴力を振るい続ける自分が彼に愛される訳がない、なぜならば暴力は搾取の手段だから……という理路が本作中で説明されている訳ではないが、まあこのくらいは妄想の範疇として許可されるだろう。またそれに加えて、飛田くんが自分なりの「普通の」愛し方というものを受け入れてくれない、というのも自分が愛されていないとする根拠として挙げられるが、これは表裏一体の問題だ。つまり、愛の方法論的な課題なのである。 

愛するということ

愛するということ

 

 エーリッヒ・フロム先生も指摘されるように、愛は技術だ。誰かを愛する方法があり、また愛を受け取る方法があって二者間に愛が成立する。ここが根本的に噛みあわない場合、愛の成立は困難だ。愛の重要な機能の一つである孤独の解消、関係への没入が達成されないからだ。

飛田くんと真澄の方法は噛みあっていない。しかし奇妙なことに成立はしている。最初は真澄が飛田くんの求める方法に徹底的に合わせ、奉仕することによって、最後は飛田くんが真澄の理解できる方法で自分の愛を示すことによって。ただし、やはりそこに至る手前の段階では、少なくとも真澄の側はセックスに没入できておらず、飛田くんとの一体感も孤独の解消も得られていない。

お互いの方法が全くかみ合わない場合でも、片方が自分の方法を押し殺し、相手に合わせることによって短期的には愛が成立する。しかしそれが永遠に続く一方的な奉仕である場合、いずれは破局する。ただ例え最後はそうなったとしても、一度は愛を成立させようとして極限まで行った努力はきっと相手に受け止めてもらえるし、相手の心に愛を生むはずだ ---- というのは最高に甘ったれた幻想だけれど、しかしこれはBLだしだがそれがいいんだよッ!!ラストに至るまでの真澄の心痛を思い知らされている読者は、この結末を別にご都合主義だとは思わない。真澄はこんなに奉仕したのだから、報われて当然なのだ。その点でちゃんとカタルシスのある、読後感のよいまとまりのある良作となっている。

これは余談だけれど、いわゆる「セックスから始まる恋愛」を描くのにBLというのは適したプラットフォームだと思う。フェミニストの主張を引くまでもなく異性間の性行為は暴力のようなもので、どうしても非対称性と搾取の構造的なイメージが付きまとってしまい、ある特定の事例における個別の愛を余計な要素なしに描くのは難しい。その点対等な同性間の性愛には、そういった身体の差異にまとわる非対称性だの差別だのは最初から捨象されている。だからポリティカル・コレクトネスに違反するようなエピソードや演出にハラハラすることなく安心して読める……ような気になるんだよね。


結論: 面白かったです(^p^)