書架とラフレンツェ

読書記録メモです。ネタバレがバリバリです。

日本人の宗教観はどこまで外国人と違うのか

ISISによりイスラム教の存在感が日本でも(あまり喜ばしくない意味で)大きく膨らんだ。元々日本人にはなじみの薄かったイスラム教だが、その教義と宗教文化の特徴的な面が大きくクローズアップされ、信仰心を持たないとされる多くの日本人には珍しいものとして受け取られている現状がある。
多くの日本人は、自分が無宗教だと思っているらしい。その一方で、日本人には「日本教」とも言うべき日本固有の独特の宗教観があり、それが日本人のメンタリティを強く規定しているとする指摘もある。

日本教」という言葉が使われる文脈は主に2つある。一つは、イスラム教などの他宗教に対比される日本固有の宗教的感覚を指す「日本教」、もうひとつは我が国の仕事観における、あたかも宗教のような独特の精神性を揶揄した言葉としての「日本教」だ。

 

いずれにしろ「日本教」という言葉は山本七平という一人の評論家が作った。山本七平は7、80年代に、主に日本論や比較文化論分野で活躍し、膨大な著作を残した評論家である。彼に対する評価は未だ定まらない部分はあるが、我が国の社会分析において大きな足跡を残した人物のひとりであることは確かだ。
彼が日本教について著した本は何冊かあるが、中でも山本が「最初の日本教徒」と呼ぶ不干斎ハビヤンの思想変遷を緻密に追いかけることで「日本教」の教義とそのご神体を暴き出した『日本教徒』が最も体系的で分かりやすいだろう。これは日本固有の宗教としての「日本教」を正面から扱った作品だ。

日本教徒 (山本七平ライブラリー)

日本教徒 (山本七平ライブラリー)

 

 「日本教」の中心に鎮座まします、その驚くべき"神"の正体はぜひ同書を読んでご確認頂くとして、興味深いのは山本七平日本教の姿を抽出するために用いた手法だ。

不干斎ハビヤンは最初は禅僧だったが、次に洗礼を受けて修道士となりそれなりの地位まで上った後、なんとキリスト教を棄教してキリスト教批判書『破提宇子』を著すに至る。仏教・儒教キリスト教の3宗教に対して当時最高の知識を持つ碩学であったハビヤンは、しかしそれらの宗教を批判するのみで、自分がそれでは一体何を善しとするのかは最後まで明かさなかった。彼が何を受け入れ何を拒絶したのか?――山本は各宗教に対し、ハビヤンが「批判した部分」と「批判しなかった部分」を洗い出し、それらの要素を体系的に組み立てて日本教の正体に迫る。

この「批判によって構成される主張」というアイデアがとても面白い。自説そのものを主張するのではなく、他説への批判を通じて間接的に自説を主張する。一見遠回りな手法だが、日本人にはなぜかとてもなじみのある論の立て方だ。山本はこのような論の立て方自体が、そもそも日本教の教義に則ったものだと主張しているが、この指摘には思わず苦笑いしてしまう。山本は、日本人が持つ客観的・中立的な「科学的態度」は、実は客観的でもなんでもない、日本人独特の価値観であると喝破する。物事にある種の合理性を求める態度そのものが、実はきわめて宗教的な思考なのだ。

そして、現代日本人もまた日本教の敬虔な信者であると納得させられてしまう。どんなに自分は無宗教だとか無神論者だと思っていても、これを読んだ後は堂々と「自分は無宗教だ」とは言えなくなるはずだ。自分が知らず知らずの間に信仰している神が一体どこの誰なのか、あなたは知りたくないですか?


さてもう一つの「日本教」だが、我が国の労働環境において滅私奉公を是とするような「宗教じみた」精神性が未だ根強いことは多くの指摘があり、これがいわゆるブラック企業の温床になっているとされている。山本は『日本資本主義の精神』の中で、まさに日本において「仕事は宗教」であるとまっすぐ定義し、石田梅岩の思想を水先案内として宗教共同体としての日本企業を容赦なく解体していく。

 なぜ、ブラックな環境下でも一生懸命働くのか?年功序列とはいかなる思想的根拠があるのか?サラリーマン35歳定年説の真実とは?どうして、ブラック企業の論理に逆らえないのか?そもそも、仕事はいかなる理由で「宗教」の要件を満たしているのか?――文中で言及されている具体的事例こそ若干時代を感じさせるものの、そこで論じられている諸問題は2015年も変わっていない。1979年の本だとは信じられない。

本書で特筆すべきは「自己責任論」への言及だ。例えば日本人が生活保護受給者や人質に対して口にする「自己責任」論の宗教的なルーツは、日本で独自の発展を遂げた禅宗にあると指摘する。つまり、自己責任論を口にする日本人は、同時に自分の信仰を告白しているのだ。もちろん、当人たちは「自分は宗教など信じていない。これは合理性のある考え方だ」と否定するのだろうけれど。

山本七平自身はクリスチャンであり、また日本史、ユダヤ教イスラム教といった各宗教に対する造詣も深かった。彼の膨大な知識と独自の思想史観が縦横に駆使され、禅宗石門心学、ひいては一神教圏における神との「契約」概念まで持ち出して描き出される日本人の労働観は、慣れ親しんだもののはずなのに未知の国の神秘的な教義を垣間見たような気にさせられる。

 

 

山本のいう「日本教」の中身は上記2冊で理解できるが、更に山本ならではの日本論をもっと読みたい場合は、彼の日本論の集大成である『日本人とは何か』が外せない。

日本人とは何か。―神話の世界から近代まで、その行動原理を探る (NON SELECT)
 

分厚い大著だが、日本という国の創設から天皇制の成立、そして武家社会を経て現代日本に至るまでの「日本人」の精神について包括的に論じている。世界大戦で日本は一体どこが変わったのか?そして何が変わらなかったのか?天皇とは一体何なのか?およそ愛国者を名乗るなら必ず押さえておきたいトピックがぎっしり詰まっている。

 

またこれは山本の作品ではないが、対比して読んで面白いのが橘玲の日本人論である『(日本人)』だ。これは今までの日本人論が「日本と日本以外との差異」をテーマに書かれていたのに対し「日本と日本以外との共通点」に注目してまとめられたユニークな日本人論である。引用されている資料は論考に加えて統計データや意識調査の結果が多く、そこから浮かび上がる日本人の姿は「世俗主義的」で「一匹狼」、「家族の絆が薄い孤独な日本人」像だ。従来の俗説とは異なる、意外な日本人の姿が浮き彫りにされる。

(日本人) (幻冬舎文庫)

(日本人) (幻冬舎文庫)

 

 個人的には、日本人論は山本七平『日本人とは何か』と橘玲『(日本人)』を読んでおけば最低限の理解はできると考えているが、それはこの2冊が論考として優れているからというより、どちらも膨大な先行研究を基礎にしたレファレンスとして利用できるからだ。「日本人とは」というテーマでは多くの論者が多くの説を唱えているが、ただそれらを読み漁るだけでは体系的な理解がしにくい。先の2冊は日本人論をメタ的に考える上で良い参考書となるだろう。

(※ちなみに「日本人論が大好きなのは日本人の特徴」「日本人は『日本と海外』といった安直な二項対立でモノを考える」といったコメントをブコメでも頂いたが、その辺りに興味があるひとはやはり山本七平日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか』が面白い。日本人が「日本/世界」といった二項対立的な国際観を持っているルーツは、ミニ中華思想らしいですよ!)

そうそう、日本人論を読む際には傍らに山川出版社詳説日本史B』あたりを置いておくと理解がしやすい。特に思想政治史を追いかける場合、歴史的にはわずかに見える年月の差が大きな影響を生むことが多い。たとえば、ザビエルがキリスト教を日本に伝えてから豊臣秀吉キリスト教の弾圧を開始するまで約40年のタイムラグがあるが、40年という歳月は3世代のクリスチャンを生むのに十分な時間だった。このたった40年が日本人の精神にどのような影響を与えたのか?その間の出来事を誤解なく追いかけるのに、詳細な教科書は欠かせない。


なお、日本人は外国人と価値観が違うというけれど、では一体どの程度精神的な差があるのか?という問いには『木を見る西洋人 森を見る東洋人』が詳しい。これは気鋭の認知心理学者であるリチャード・E・ニスベットが、いわゆる国民性と呼ばれる、国による価値観や感じ方の違いがどれほど「その国の国民」固有のものなのかを調査した結果だ。日本からも研究者が共同研究に参加しており、公平な視点からの調査結果を読むことができる。

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか

 

 いわゆる「国民性」はわずか数か月で後天的に変化し得るものであること、また女性よりも男性に強く表れる傾向があるなど、興味深い結果がたくさん報告されている。

また国民性や文化の成り立ちを、壮大な人類史を通じて地政学的に活写した『銃・病原菌・鉄』は、学術的な価値もさることながらドラマとしても面白い。読むシヴィライゼーションと評される同書だが、人類のルーツと行く末に思いを馳せてしまうと同時に、世界の平和を祈らずにはいられなくなる。


日本人とは何なのか、我々はどこから来てどこへ行くのか?
これは永遠に答えの出ない問いだが、自分たちについて知ることは翻って、少しでも他者を知ることにつながるかもしれないから、我々の我々自身への興味を大切にしたい。

 

なぜ、お金持に増税してはいけないの?

トマ・ピケティ『21世紀の資本』が大人気で、今のわが国では「格差」がホットな話題のひとつとなっている。そして格差を是正するために累進課税を勧め再分配を強化するべきだ、いやそんなことをするとお金持の勤労意欲が下がって国外に脱出してしまうから駄目だ、という二派は、ピケティ本登場以前も以後も長いバトルを繰り広げている。

お金持により重い税を課すのはいいことなんだろうか?悪いことなんだろうか?

それを判断するには一体、どんな材料が必要なんだろう?


増税される側の人間として、お金持本人は一体どんなことを考えているんだろう?
そもそも「お金持」とは一体どこの誰で、どんなひとたちなんだろうか。
どこに住んで、どういう仕事や生活をしているのだろう?

経済学者の橘木俊昭氏と森剛志氏はこの雲をつかむような問いに対して、日本に住む年収1億円以上のひとたち約6000人に直接アンケートを配布しインタビューを申し込むという超直球突撃取材を敢行した。その成果は『日本のお金持ち研究』という本にまとめられている。

日本のお金持ち研究 (日経ビジネス人文庫 ブルー た 11-1)

日本のお金持ち研究 (日経ビジネス人文庫 ブルー た 11-1)

 

 その結果たくさんの興味深い事実が判明しているが、一部を紹介すると

  • お金持の職業トップは経営者や企業幹部で約43%、その次が医師で約16%。
  • お金持の企業幹部のうち約81%が非上場企業の幹部であり、残り19%が上場企業の幹部
  • お金持の90%が既婚者であり、同一の配偶者との結婚生活が30年を超えるひとが多数
  • お金持の3人に1人は東京都民

直感的に納得できるものもあれば、意外なものもある。他にも、お金持の趣味やライフスタイル、配偶者についての踏み込んだ調査もあり、どこか他人の家庭を覗き見するような面白さだ。

ちなみに「年収1億円」のひとを「お金持」とみなす基準は、1USD=100円である場合には国際的に「お金持(ミリオネア)」であると定義される基準なので、これは理にかなった線引きだ。年収1000万円以上のひとも庶民感覚からいえばお金持なのかもしれないが、言及はあるものの本書の主な調査対象には含まれない。

『日本のお金持ち研究』には姉妹編として、お金持の(主に女性)配偶者に着目した『日本のお金持ち妻研究』やお金持の教育・ライフスタイル分析により重点を置いた『新・日本のお金持ち研究』もある。お金持の奥さんはどんなひとなのか?若いモデル美女なのか、それともやり手のバリキャリ女性なのか?お金持の学歴は高い?お金持の親って、やっぱりお金持なの?いずれも、お金持の実態に生々しく迫り興味深い。


……さて税金の話は、同書の第7章に「高額所得者への課税」が設けられている。ここにはお金持に対する国内外の課税の歴史が簡単にまとめられており、1970年代は我が国の最高所得税率が70%だったが、現在では実効税率で42.1%程度に下がっていることなどが紹介されている。

この章の中で、著者はお金持への累進課税反対論を以下のようにまとめている。

  1. 労働意欲や貯蓄意欲にマイナス
  2. 自由束縛論(自分で稼いだお金を自分で使うのは個人の自由であり、国家が取り上げるべきではない)
  3. 有能で生産性の高い人は社会の宝物だから、低い税率で報いるべき

2と3は考え方の問題なのでそれぞれに意見があるだろうから後回しにするが、とりあえず1については客観的に確認できるはずだ。まず、アメリカや日本では税の累進性と労働時間との間に相関はないとの研究結果がある。『日本のお金持ち研究』第7章では、多くの国において、少なくとも成人男子については税の累進性は労働供給にほとんど影響しないと述べられている。

大体、お金持そうな日本人ということで頭に思い浮かべるのは渡邊美樹、孫正義三木谷浩史……といったひとたちだが、彼らが所得税率が上がったくらいで「あーやる気なくなった……俺は休むし貯金もしないわ」と考えるとは思えない。百歩譲ってそう考えるとして、むしろ是非そうしていただいた方が周囲のひとが幸せになるのではないかと思えるレベルだ。『日本のお金持ち研究』でも、仕事==趣味、生涯現役の仕事大好き人間がお金持には多いことが報告されており、税率が彼らの勤労意欲に影響を与えるとは考えにくい。

また「お金持に重税を課すとお金持が国外退去してしまう」という説もあるが、これもデータからは見えてこない。世界で一番高額所得者の多い国はアメリカだが、OECD『格差は拡大しているか』によると、アメリカの税の累進性はOECD加盟国第2位だ。

格差は拡大しているか −OECD加盟国における所得分布と貧困

格差は拡大しているか −OECD加盟国における所得分布と貧困

 

 もし「所得税率の累進性が高い」という理由でお金持がこぞって国外退去してしまうのであれば、今頃世界で最も高額所得者の多い国は累進性の低いスイスやポーランドになっているはずだ。

なお、同書はOECDが世界の「格差」の現状を人口構造や賃金分布といった観点で分析しているほか、政府の現物給付を含む再分配の効果、世代間の資産移転といった側面からも膨大なデータをまとめた一冊であり、世界規模で格差の現状を考える前にまず材料となる基本情報を提供している。

そもそも、多くのお金持がお金持になった理由はその国、その市場にうまく最適化したからだ。お金持がその国から離れてしまったら、そのお金持は富の源泉から離れることになってしまう。
既に稼ぎまくって引退した資産家はどうだかわからないが、少なくとも今まさに富を生み出し続けているお金持は容易にその土地から離れられないはずだ。もし渡邊美樹が税の累進性が高いという理由で日本から出て行ってしまったら、彼はたちまち今ほどの収入を得られなくなってしまうだろう。いや彼が日本から出ていくのは一向に構わないのだけれど。

ちなみに『日本のお金持ち研究』のアンケートによると、お金持自身の気持としては所得税の累進性強化には反対で、比較的逆進性の高い消費税の増税に賛成するひとが多いとの結果が出ている。


さて、最初にスルーしてしまった考え方の問題、すなわち考え方の問題について参考になる本を挙げる。自分で稼いだお金を自分で使うのは個人の勝手なのか?国家はそこに踏み込むべきではないのか?そして有能で生産性の高いひとは社会の宝物だから、重税なんかでいじめるべきではないのか?そもそも、税金とは勤労に対する懲罰なのか?

これらの問いに対して『私たちはなぜ税金を納めるのか』では、世界各国の税制の歴史から分かりやすく税に関する様々な価値観とその発展を概観することで色んな答えを示している。

私たちはなぜ税金を納めるのか: 租税の経済思想史 (新潮選書)

私たちはなぜ税金を納めるのか: 租税の経済思想史 (新潮選書)

 

 「ぼくのかんがえるさいきょうにこうへいなぜいきん!」のアイデアを先回りしてどんどん打ち砕いてくれる一冊だ。素人が思いつくようなことは大抵既にプロによって考え抜かれている、という原則をしみじみ味わえる。また、貧困をなくすには累進課税と再分配しか方法はないのだと思い知らせてくれる。

 

お金持もそうでないひとも、万人が納得する税制や再分配のあり方はきっと存在しないんだろう。でも、 できるだけ多くの立場と情報が集まれば、今よりは少しだけ納得感のある税制になるかもしれない ---- と思いたい。

採用で失敗しない、たった一つの冴えたやり方

読む時間がない人向けまとめ

  1. 職務記述書を書け
  2. できるだけそれに近いことをやったことがある人間を採用しろ


承前・職務記述書の話

採用シーズンも終わりかけの頃にこんな記事を書いて申し訳ないが、記憶の生々しい時期の方がいいと思ってさ。


そもそも採用を成功させるとはどういうことだろうか。もちろんそれは、欲しい人材を雇う、ということだ。では欲しい人材とはどのような人材だろうか?

ここで「コミュニケーション能力があって~」「学ぶ意欲があって~」などとフワフワした希望を述べているようでは、いつまでたっても欲しい人材など採用できるはずがない。そもそも現場の各部署と経営層、また人事担当者にとっての「欲しい人材」像はそれぞれ食い違っていることも多いし、もし「コミュニケーション能力と学ぶ意欲がある人材」といった事柄で意見が一致したとしても、その能力や意欲の定義がずれていてはどうしようもないからだ。

日本の多くの企業では、日本で育った期間が長く大学卒業程度の学歴を持つ日本人が大多数を占めるから、みな一定以上の学力は持っているしコミュニケーション上の問題もそれほど発生しないはずだ。しかし現実には、多くの企業が「コミュニケーション能力のある人材」や「地頭のいい人材」とやらを求めて莫大な採用費をつぎ込んでいる。日本ですらこんなに苦労しているのだから、多様な人種やバックグラウンドを持つ海外では一体どうしているのだろうか?


その問題を解決するために導入されている文書が「職務記述書」である。職務記述書とは英語の"Job description"の訳語だ。あるポストに求められる業務内容や責任範囲、必要な知識やスキル、およびそれらの優先順位、更に求人に使用される場合は待遇を記載した文書で、原則として一切の採用活動や労働契約、人事評価がこれに基づいて行われる。もちろんその内容は経営陣や現場の部署を含め、社内で共有されている。また、定期的に見直しが行われ、状況に応じて内容が変更される。
日本ではほとんど普及していないので英語圏の物を一部分抜粋して紹介するが、例えばこんな感じだ。

ITプロジェクトマネージャー(レベル3)

 

【身体的要件】

ここに記載している身体的要件、並びに労働環境は、従業員が本職の本質的な機能において成果を上げるために満たさなければならない要件を代表している。

  • 本職には歩行、会話、聞き取り、手での物や道具の取り扱い、制御、腕や手を伸ばす動作を含む。また、本職には近くや遠く、周辺を見る視覚や、遠近の感覚、物に焦点を合わせる能力が必要である。
  • 労働環境の騒音レベルは大抵適度な静寂が保たれている。

 

【1. 職務概要】
複数の規則や部署を超えたプロジェクトチームの協働や指揮に責任を負う。見積書の作成や契約交渉、契約書の作成、導入管理や外注業者の管理を含むITシステムの調達プロセスに責任を負う。

  • 主要なプロジェクト、およびいくつかの小さなプロジェクトや部署を企画し、組織化し、活動を統制する。
  • 予算的制約の下での納期を保証する。
  • 特定の要求や問題解決のために顧客と対話する。
  • 他のプロジェクトマネージャーやチームメンバー、サポートスタッフを限定的に監督する。
  • 大きなプロジェクトを監督する。

 

"CITY OF BELLEVUE -IT JOB FAMILY DEFINITIONS"
http://mrsc.org/getmedia/EF379D87-87C8-43D1-BCE6-570DA1351925/B44itprojman.aspx

原文はA4で8枚ほどの大作なので全部は訳さないが、腕の曲げ伸ばしについて言及するなどここまで細かく書くのかと驚くほどの分量だ。また、職務の責任範囲においても明確に記載されている。もちろん職務記述書の内容は企業によってまちまちであり、長い企業もあれば短い企業もあるが、人事関連のあらゆる側面において職務記述書が最重要視されていることは確かである。

なお、職務記述書の書き方は英文ではあるが

辺りが参考になる。これでは分からん、もっと詳しく、かつできるだけ簡単に作成・共有する方法が知りたい、という場合は……個別にご相談を承っておりますのでご連絡下さい。有償だけれどな!

とにかく、こんなものを書けといきなり言われてもそんな時間はないし、無理だという気持はわかる。いくら大量の文書を作成したところで、意図の完璧な反映は不可能だから一部分は無駄になる可能性もある。でも、意図の共有努力を放棄するよりかははるかにマシだ。
一説には、新卒の採用コストは一人当たり100万円を超えると言われている。望ましくない人材をうっかり1人採用するたびに100万円が吹き飛んでいくのだ。更にその望ましくない新人のお守を向こう3年ほどやらなくてはならないとしたら、その損失は計り知れない。職務記述書の作成は大変かもしれないし、いきなり経営陣や人事部、あるいは現場を巻き込むという訳にもいかないのかもしれないが、せめて自分の部署内で「こういう人材が欲しいよね」くらいのことはきっちり詰めておいた方がいい。さもないと永遠に「欲しい人材」が具体的に何なのかも分からないままであり、採用方法以前の問題だ。

 

本題・採用方法の話

さて職務記述書により職務の内容とそれに必要なスキルセットが明らかになったとして、どのようにそのような人材を探し出せばいいのだろうか?ビジネスの世界では昔からとにかく「能力」の高い、ベスト・アンド・ブライテストな人材が求められてきており、お金のある大企業やイケイケのベンチャーは大枚をはたいてそうした人間を探し出す方法の獲得に鎬を削り続けていた。

ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?

ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?

 

ビル・ゲイツの面接試験』は、主にマイクロソフトという一つの企業史を通じて、IT企業において如何にして能力の高い人材を検出する努力がなされ、その結果組織がどうなってきたかを活写した作品だ。学歴による判断、数学パズル、fizz-buzz問題、実際にコードを書かせてみる、複数の有能なエンジニアによる面接……すべて能力の高い人間を見つけ出すためだ。そうして採用された人材はもちろん「能力」が高く頭がよく、彼らを採用した企業に対して一定の貢献をしたことは確かだ。

ただ、採用を目的とした能力検出には2つの問題がある。1つ目は「高次知的能力の測定にはコストがかかりすぎる上に精度もイマイチ」問題、もう1つは「そもそも企業は能力測定を目的とした機関ではない」という問題だ。

そう、高次知的能力の測定にはとてもコストがかかる。例えばセンター試験は、各科目にそれぞれ優秀な研究者が総計600人以上招かれて数年がかりで作成する。それでも、センター試験が「本当の英語力」や「本当の数学力」みたいなものを測定できているかどうかというと甚だ怪しい。そもそもそれらの能力は、定義自体が非常に困難なものだ。たった一つの基準で測定できる能力ではなく、複数の能力や知識技能が複雑に組み合わさって構成されている能力だからである。
50m走のタイムが20秒のひとがいたとして、そのひとのスポーツ能力の判定は簡単だ。きっとそのひとは野球をやらせてもサッカーをやらせてもダメだ。じゃあ、50m走のタイムが6秒のひとがいたとして、そのひとは確実に野球やサッカーの能力が高いと言えるのだろうか?それだけでは分からないとして、じゃあハンドボール投げの距離やシュートの精度などを個別に測定していけば、そのひとが素晴らしい野球やサッカーの選手になれるとはっきり分かるのだろうか?
多分、そういった体力テストの結果を個別に足し合わせても、そのひとが本当に優秀な選手になれるかどうかは永遠に分からない。そうなれるという可能性は高まるかもしれないが、それだけでは判断がつかない部分は原理的に残ってしまう。足切りをしある程度以上の可能性を示した後は、どれだけテストを重ねても精度はそれほど高まらない。

「それでもいい、どれだけコストがかかっても能力の高い人間を探し出して採用したいんだ」と言うならば、以下の本が参考になる。現在の能力評価技法の最先端が分かりやすく解説されている。

 主に学校での能力評価を前提としているが、ちょっと考えれば採用時や労務管理時の能力評価にも転用できるものがたくさんある。

「ちょっと待ってくれ、そういうのはバカバカしいんじゃないか?」と思うなら、次の話に移ろう。


この言葉は色んな文脈で発されるが、そもそも「会社は学校ではない」。学校は能力育成を目的とした機関だから、コストをかけて能力評価を行っても当然だ。しかし企業にとって従業員の能力とは利益を上げるためのリソースのひとつであり、それ以上でも以下でもない。たかがリソースの一部分を獲得するためにそれ以上のリソースを費やすなんてアホらしいんじゃないか?もっとコスパのいい方法があるんじゃないだろうか?

クレイトン・クリステンセンは『イノベーションへの解』第7章で「正しい資質を持った人材が適材ではない」というショッキングな主張をしている。破壊的な新規事業を任せるに足るマネージャーは、今まで企業の中で一定の成果を上げ続けていた「能力の高い」人材ではない、という主張だ。

イノベーションへの解 利益ある成長に向けて (Harvard business school press)

イノベーションへの解 利益ある成長に向けて (Harvard business school press)

 

 彼は、人間の能力は今まで経験してきた事柄に依存すると述べる。つまり、あることを以前にやったことがあればそれをやるスキルが一部なりとも身についている、という考え方だ。これは冷静に考えると当たり前の話で、足がとても速いだけで生まれてから一度もサッカーをやったことがない人間よりかは、足の速さは平均レベルでもサッカー部で2年間練習を重ねてきた人間の方がサッカーがうまいに決まっている。能力が高いだけの無知な主人公が初回でいきなりベテランを超えるスーパープレイを見せる、なんてのは少年マンガの世界だけだ。

だからクリステンセンは、今まで安定した組織の中で安定した成果を上げた成功体験しかない人間は、どんなに「能力」が高かろうとも画期的で予測不可能な新規事業を切り盛りするスキルはない、と実例をあげつつ喝破する。それよりかは、少々能力が平凡だとしても、社内ベンチャーに取り組んだ経験のある人間に任せた方がずっとマシだという訳だ。だから新規事業を任せるマネージャーは、能力ではなく経験で選べと主張する。また日本ではお馴染みだが、社内で欲しい人材を育成する場合は、配置転換や出向などでそれに応じた経験を計画して積ませるべきだとも述べている。

ちょっと考えてしまう説かもしれないが、いくつかの小さな企業の経営者はクリステンセンの主張を彷彿とさせる採用持論を展開している。例えば『Joel on Software』では、「 賢くて、結果に結びつけられる 」人間を採用するために最近関わったプロジェクトについて質問したり、その場で考えたことのない問題を解決するよう求めたりしている。これは同社が、必ず結果を出す人材を求めているので、結果を出した経験を探ったりその場で結果を出すことができるかどうかを調べるために行っていることである。

Joel on Software

Joel on Software

 

 また『強いチームはオフィスを捨てる』では、リモートワークでの協業を実現するために、書類選考時点で高いコミュニケーションスキルを求めている。まず、何が言いたいか簡潔に書かれていないフェイスシートは弾くそうだ。また、実際の業務を2週間程度担当してもらい、採用の可否を決める。

強いチームはオフィスを捨てる: 37シグナルズが考える「働き方革命」

強いチームはオフィスを捨てる: 37シグナルズが考える「働き方革命」

 

 上記2社はどちらも、能力そのものの評価というよりかは現実の状況下での行動や経験を重視した採用過程である。そもそも能力は経験によって育成され特定の状況下において発揮されるとするならば、能力と経験とを切り離した評価は究極的にはできない。そして「伸びしろ」としての能力を求めるならば、やはりそれは能力そのものの評価によってではなく「新しいことを学んだ経験」によって評価する方がより手っ取り早いのだ。

『ファスト&スロー』で、ダニエル・カーネマンがかつて設立されて間もないイスラエル軍の幹部候補を選出したときのエピソードを語っている。彼は如何なる能力評価の手段よりも、幹部に必要な適性の存在を示す過去の経験をチェックリストにして質問するというシンプルな方法が最も精度が高いことを発見した。

ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 まだ幹部でない軍人から幹部候補を選出するので、幹部をやった経験そのものは問えない。だが、見知らぬ者同士をチームとしてまとめあげた経験や非常時に沈着冷静な判断を求められた経験ならば、ヒラの軍人でも持っている者はいる。

職務記述書があるならば、その職務を遂行するために必要な「経験」のセットを優先順位付きで導出できるはずだ。これは中途採用でも、新卒採用でも同じである。学校とはまさにスキル開発のために計画的に経験を積ませる機関であり、学生が学校で積んできた経験に対しての質問はとても有益だ。採用面接で「学生時代は何に打ち込みましたか?」などとザックリした質問をするくらいならば、自社が真に必要としている経験をちゃんと検出できる質問を投げかけたい。

 

※本稿の続編?として「そろそろ「プログラマー35歳定年説」を徹底論破しとくか - 書架とラフレンツェ」を書きました。「アメリカと違って日本はメンバーシップ型雇用だから職務記述書は向かない」「企業内では人材育成をやらなくていいってこと?」という疑問をお持ちの方はこちらをあわせてお読みください。

 

嘘つきヤリ捨て男にムカついたときのおススメ小説&映画

世の中には甘言を弄して女の子を騙し、ヤリ捨てする男がいるようだ。そのようなクソ男が一日でも早く絶滅してくれればと願うが、現実ではなかなかそうはいかない。

合法的な手段、あるいは非合法的な手段でボコボコにするというやり方もあるけれど、今回は報復する方法ではなくて、クソ男に引っかかった時の気晴らしになるような作品を挙げる。

 

王妃の離婚 (集英社文庫)

王妃の離婚 (集英社文庫)

 

 佐藤賢一直木賞受賞作。1498年のフランス王家が舞台だが、当時のフランスはカソリックであったため離婚が禁止だった。例外的に「白い結婚」、つまり性交渉のない結婚の場合のみ離婚が可能だったが、新しい女ができた時の王ルイ12世は王妃ジャンヌに「白い結婚」を理由に一方的に離婚を申し立てる。

ウソつけヤリまくったくせに!!!!!

カス王の陰謀は主人公の辣腕弁護士・フランソワにより打ち砕かれる。法廷で王のウソが暴かれるシーンは見ていてスカッとする。その後、王妃に下手くそ男と切って捨てられる下りまで、清々しい読後感のある作品だ。

 

聖女の救済 (文春文庫)

聖女の救済 (文春文庫)

 

 東野圭吾作・探偵ガリレオシリーズの長編。推理小説なのであまりネタバレは書かないようにするが、非常に身勝手な理由で2人の女性を弄んだカス男が復讐として殺される話だ。

ラストは犯人が多分完全犯罪で逃げおおせることが示唆されており、「クソ野郎ザマぁwwwww」と溜飲が下がる。

 

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]

 

 これは映画。東ドイツで性転換して「女性(?)」となったロックシンガー・ヘドウィグの愛と冒険の物語だ。ひどい男たちに捨てられまくるヘドウィグには涙を禁じ得ないが、それでも自分を裏切って逃げたかつての恋人と和解する場面には胸が熱くなる。独特の映像と音楽の世界も非日常感があり、クセになる。

 

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

 

 まだ劇場公開中だろうか?デビット・フィンチャー監督作品『ゴーン・ガール』。上記は原作小説だが、もちろん映画も独特の緊張感漂う緻密な映像で構成されており、サスペンスとしておススメだ。浮気した挙句に妻を捨てようとしたカス男が徹底的に社会的地位を削られ復讐される話で、一部ハラハラするシーンやアチャーと思うシーンはあるものの全体的に「ザマァwwwwww」という気持で一杯になれる。

クソ夫への復讐と自分の新しい人生を構築するためにひたむきに頑張るヒロインは健気で好感が持て、見終わった後は「わたしもがんばろっ☆」という前向きな気分が湧いてくる。2ch家庭板の修羅場話が大好きな全てのひとにおススメ。

 

いや~、映画って本当にいいものですね**p(^-^)q **

それでも「好きなことで、生きていく」。慈悲はない。

※言いたいことはラスト2行です。

 

本記事のタイトルは言わずと知れたYoutubeの、あの有名コピーだ。この言葉に対しても、この言葉が登場する以前にも、「好きを仕事に」するやり方は一定の羨望や嫉妬を絡めつつその是非やハウツーが議論されてきた。例えば最近のはてな内では
「好きなことで生きていく」ことの現実 - 狐の王国

突然の無職からのスタート カメラマンで年収800万までたどり着いた方法 - 元カメラ販売員のカメラマンストーリー CameraStory

好きなことで生きていかなくても別に大丈夫です - カリントボンボン

のような記事が注目されてきた。

しかし、世に多くある「好きなことで生きていく」に関する言説の多くが、それが肯定であれ否定であれ、ある状態を前提としている。それは「『好きなこと』と『好きではないこと』、両方が選択肢として存在する」状態だ。片方にちょっと大変だけれど「好きなこと」で生計を立てる道があり、もう片方に楽で安定しているかもしれないけれど「別に好きでないこと」で生計を立てる道がある、さてどっちがいいでしょう?という話だ。
でも、はたして本当にそこが問題なのだろうか?

『搾取される若者たち―バイク便ライダーは見た!』というルポルタージュがある。過酷で危険なバイク便ライダーの仕事を選んだバイク好きの若者たちを取材したものだが、そこで活写されているのは種々の理由で職業選択の幅が狭まったため、やむなく「好きを仕事に」した結果、ブラックな労働環境に自ら進んでコミットしてしまい抜け出せなくなったという身も蓋もない残酷な現実だ。

搾取される若者たち―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)

搾取される若者たち―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)

 

 彼らは数多くの選択肢の中から「あえて」バイク便ライダーという職業にコミットしているのではない。それ以外の選択肢を実質的に失っているから、そうしているのだ。そのような状況下では「好きなことで生きていく」かどうかで悩む必要はない。何しろ、選択肢がそれしかないのだから。

このエピソードを知ったのは『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』にあったからだが、この部分を読んだ時に即座に「ああやっぱりなぁ、そうだろうな」と深くうなずいた。わたし自身がそんな理由で「好きを仕事に」している人間のひとりだからだ。

独創的でイケイケな、才能豊かで個性的なひとびとがたくさん集っている職種だと思われがちな仕事をしていて、ずっとそういうひとたちに入り混じって意識高い系の人間のフリをしてきた。でも実態は、それがやりたかったからというよりかは他に選択肢がなかったから、の方がずっと近い。
わたしは極度に飽きっぽく社会性も協調性もない人間で、堅めの職業どころか毎朝9時に出社して8時間デスクに座っているというただそれだけのことが不可能だった。幼い頃からそうで、小学生の段階で公立学校からは匙を投げられた。そのため中高と問題児に理解のある私学へ進学し、そこでなんとか社会の端にしがみついていられるだけの教育を授けてもらえた。高校を出た頃に予期せぬ家庭環境の急変によりたちまち食い詰めたが、幸いにもたまたま変わった趣味を持っていて、それは一部で珍重されるスキルに転用できた。だから生き延びるために、同じスキルを持つちょっと変わった――毎日朝9時に出社するなんていう"クリエイティブでない"ことなんかに時間を使わないと思われているような――ひとたちがいるところへ身を置いた。そして全ての人的資本をそこへ投資すると同時に、いかにもそれを「好きだからあえてやっている」独創的な人間の顔をし続ける他に方法はなかった。

よく「自由だね」「毎日好きなことやってて楽しいでしょう」と言われる。それは本当だ。自由だし、毎日とは言わないまでも割と多くの日々好きなことをやれて我ながら幸せ者だと思っている。他人から羨まれる(こともある)職業に対する一定のプライドも持っている。でもそれは決して積極的な選択の結果ではない。
果たして今、日々やりたいことをやって生活しキラキラしているように見えるひとたちのうちの一体何人が、そうじゃない選択肢を持っているのだろう?「いつまでもそうはいかない」「そんなことでは食っていけないよ」と説教するひとはたくさんいるが、じゃあ、色んな事情で「好きなこと」しかやれないような人間が、他の道を選んでもっとうまくやっていけるとでもいうのか?

「好きなことを仕事にしようか、やめようか」と悩んで能動的に選び取れるならまだ幸いだ。「趣味は趣味、仕事は仕事」と割り切れるのならそれでもいいし、何なら今のご時世、本業とは別に副業を持ったっていい。ただ、そうできるほど環境に恵まれた要領のいい人間ばかりでもない。

よく同業者のプライベートな飲み会で、みな自嘲と自負の入り混じった笑顔で「結局、自分にはこれしかできなかったからさ」と言い合う。テレビを見ればこの道何十年の優れた職人が、伏し目がちにおなじ言葉をつぶやく。彼らの中にはダメ人間も人格高潔な方もいるが、でも、それは本音なのだろう。


……自分語りはここまでにして、ここから先はそういう、半ば選択の余地なく「好きなことで、生きていく」羽目になった場合のサバイブに役立つかもしれない話をする。
「好きなことで生きていく」のがダメだとされる理由の第一が「それで食っていけるとは限らない」からだ。その理由を、前掲書「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」はマネタイズにあると指摘している。

残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法

残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法

 

 好きなことを仕事にしている人間は大抵それに人的資本を全投入しているため、多くが他の選択肢を持たない。だからマネタイズ――そのスキルを金銭に変える技術を持った他の誰かに買い叩かれてしまい、これが搾取の構造を生む。だから、自分で自分の能力をお金に変えられるならば搾取される確率は下がる。

でも、マネタイズこそがビジネスのキモで、好きなことをやっている個人どころか企業ですらそこには苦心している。「マネタイズできるようになれ」などと言われても、一体何をどうしたらいいのだろう?

幸いにも『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』内ではそれらの方法が簡潔に述べられている。副業やマイクロ起業のハウツーもその辺りにたくさん落ちている。また、すぐ役に立つハウツー知識ではないが、『イノベーションのジレンマ』で有名なクレイトン・クリステンセン先生が同書の続編にあたる『イノベーションへの解』で興味深い話をしている。

イノベーションへの解 利益ある成長に向けて (Harvard business school press)

イノベーションへの解 利益ある成長に向けて (Harvard business school press)

 

 これは要は「必ず稼げる市場を見つけ、そこで勝つにはどうすればいいか」について語られている本だ。

クリステンセンは市場とそこに存在する企業の分析に生態学的なフレームを導入し、それにより企業の向上意欲や努力そのものがその企業自身を「市場の上方」へ追いやり自滅するメカニズムを明らかにした。これは向上努力が悪だからやるなとかそういう話ではない。これは生物が生まれて成長しやがて老いて死ぬのと同じくらい必然的なプロセスであり、人間が努力によって自らの加齢を止めることはできないように、単なる企業努力によってこれを逃れることはできない、という主張だ。

そして、もし老いと死が生物と企業の必然であるならば、企業は如何にしてこの運命から逃れることができるのか?という問いへの答えが『イノベーションへの解』となる。

イノベーションへの解』では産業の進化過程、並びにサプライチェーン/バリューチェーンの解析にやはり生態学的なフレームを適用し、搾取される側の企業と儲けられる側の企業を鮮やかに峻別している。主に企業に関するものだし、それ以前に学術的な内容が大半を占めるのでここで深くは触れないが、個人レベルの戦略を立てる上で参考になる知見は

  • 新商品や新サービス、娯楽用コンテンツを考え出すには、ターゲット顧客層や類似製品の分析などではなく、ユースケースや問題解決という観点から企画しろ
  • 個人や零細企業が狙うならインタフェースの標準化が進んだ成熟市場がよい
  • 誰にも真似をされないような、自分自身のコンテンツを持て
  • 自分のいる市場の状況変化を察知し、それに合わせてどんどん立ち位置を移動しろ

といったところだろう。同様のお題目を唱えている起業指南書はごまんとあるような気もするが、「なぜそうしなければいけないか」を単なる経験則ではなく理論として解説したのは同書の大きな功績だ。理論として提示されているので自分の状況に則しての応用も効くし、なにより圧倒的な事例分析と論理で述べられているので説得力が半端ない。

「面白そうなのは分かったけれどこんな分厚くて小難しい遠回りな本読んでられねぇよ!」という場合は、素直に以下の本が役に立つだろう。

億万長者のビジネスプラン―ちょっとした思いつきとシンプルな商品があればいい

億万長者のビジネスプラン―ちょっとした思いつきとシンプルな商品があればいい

 

 いわゆるスモールビジネスの本で、アメリカの事例だから日本では当てはまらないものも多々あるが、学べる教訓は汎用性があって考えるヒントになる。紹介されている事例は肩の力が抜けた可愛いものが多く、他の起業本のようにギラついていなくて楽しい。

自分が作り出した製品やサービス等からの利益を最大化するには、以下の

プライスレス 必ず得する行動経済学の法則

プライスレス 必ず得する行動経済学の法則

 

 が参考になる。買い叩かれず競合にも負けない「価格付け」の方法論が、豊富な事例と学術的な根拠とともに分かりやすく解説されている。紹介されている事例はマイクロソフト等の大企業も多いが、理論は個人レベルでも十分応用できるものだ。

また、もし万が一好きなことを仕事にして失敗したらどうしよう?という不安を解消するためには、やはり橘玲の以下の本が大変参考になる。

タイトルから見ると一攫千金の話のようだが、実際はむしろ税金対策等を中心とした低コストに生きる方法の解説が多い。起業から日常の生活まで考え方の説明を中心に幅広くカバーしており、割と今すぐ役に立つ知識も得られる。

創業成功の第一歩はできる限り低リスクな資金の確保と操業コストの押し下げだし、不安定な収入の中でのサバイブのコツは『年収100万円の豊かな節約生活術』でも説かれている通り、生活のクオリティを保ったままコストを下げることだ。それらを実現するための基礎的な概念や知識を身に着けるのに役に立つ。起業とまでいかず、ただ趣味からちょっとだけ実益を得たいといった場合でも参考になる。ただ、もちろん本にあるようなハウツーはすぐに陳腐化するし、実際のご利用は自己責任で、といったところだ。

しかし一見どこにでもありそうなハウツー本であったとしても、橘玲氏の著書をお勧めするのは、氏の著作は一貫して「選択肢の存在を示す」ことに主眼が置かれているからだ。絶望的な「詰み」に見える状況から人間を救うのは、具体的な知識ももちろんだけれど、それ以前にそのような知識を求め実行するだけの気力だ。そしてそういう気力を生むのは知識に裏打ちされた希望であり、橘玲氏の著作はその希望の土台となる知識の提供を中心としている。

重要なのは「どんな状況下でも生き延びる方法はある」と信じることだし、そしてそれは大抵の場合、事実だ。
「好きなことで、生きていく」のでもそうでなくても、その原則は忘れたくない。

 

やる気とモチベーションは関係ない

タイトルは半分くらい釣り。やる気ってのはやる気のことで、モチベーションとは「やる気を起こさせるような刺激、動機づけ」のことだけれど、やる気とモチベーションは「実はそれほど密接には」相関がない、ということで。

本記事は

今後のIT企業における若手の採用と教育について - Togetterまとめ

にインスパイアされてのものだけれど、必ずしもこれに合致した内容ではない。

 

一般的に、ある業務に対するやる気を出すにはモチベーション(動機付け)が必要とされている。動機付けには内発的なものと外発的なものがあって、前者は例えば「プログラミングtanoshiiiiiiiもっと勉強したい!!」みたいなもので、後者は「おちんぎん一杯もらえるから頑張ります!」みたいなものだ。従業員にある業務に継続的にコミットし、スキル向上のために自発的に努力してもらうには、こうしたモチベーション――特に持続力が高く企業側のコスト負担が少なくて済む内発的動機付けが必要、というのが定説で、先ほどのTogetterにまとめられているつぶやきもそのような価値観を下敷きにしているように思える。だから何とかしてプログラミングに興味を持ってもらおう、さもなければ賃金で釣るしかないという話になるんだろうが――

でもそれって本当だろうか?

 

世の中、好きなことを仕事にしているひとの方が少ない。外科医は人体を切り刻みたいからやっている訳ではないだろうし、お巡りさんだって犯罪者とお近づきになりたいからやっている訳ではないだろう。そもそも、その職業に明確な意志の下なりたくてなったひとが一体どれほどいるというのか。これが現実世界というものだ。

しかし、世の中全てのひとが自分の仕事に対してコミットしていないとも思えない。むしろ、自分の「やりたいこと」とは別に、職業上の情熱をもってそれなりに熱心に仕事をしているひとは、下手に「好きを仕事に」しているひとよりもたくさんいるように思える。むしろ「好きを仕事に」しているひとの方がそのためにより潰れてしまうケースだってあるのだ(see also:「「好きなことで生きていく」ことの現実 - 狐の王国」、橘玲残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」)。

 

そう。最初はどれほどその仕事が好きでやりたくて情熱をもってその職業についたのだとしても、色んな事情からその仕事に対するやる気がなくなってしまうことはたくさんある。モチベーションがどんなにあったとしても、ほかの事情でやる気が消えてしまうのであれば、モチベーションなんかあったって意味がないんじゃないか?逆に、モチベーションなんてなくても、やる気が出ることだってあるんじゃないか?

 

このテーマについてダン・アリエリーという今一番セクシーな行動経済学者が面白い実験をしている。この実験は神話の登場人物の名を借りて「シジフォス実験」と呼ばれているが、これはモチベーションのある仕事に対するやる気を意図的に失わせてみるという実験だ。詳細な内容は

 に詳しいが、本を読んでいるヒマがないひとは

こちらのTED動画をどうぞ。何処とは言わないが、シアトルにある某世界最大のIT企業に彼が招かれたときに直面した、200人ものエンジニアたちのやる気を一度に失わせたとある一件について語られている。

 更に時間がないひと向けにざっくりした解説をする。シジフォス実験ではレゴ大好きな被験者にレゴを組み立ててモノを作るように指示し、完成したら被験者の目の前で成果物を解体するのだ。これを何度も繰り返し、どのタイミングでやる気を失うかを調べた実験である。

この実験によって明らかになったことは、やる気を失わせるには単にそのひとの仕事を無視し、徒労に終わらせればよくて、やる気を出させるにはそのひとの仕事を認め「よく頑張ったね、ありがとう!」の一言をかければよい、ということだ。

つまり、どんなに高いモチベーションの持ち主であっても、周りの人間がそのひとの仕事を無視するか、度重なる手戻りによって徒労を重ねさせれば、人間のやる気なんてすぐに消えてしまう。反対に、最初は少々興味のない仕事だったとしても周りの人間がそのひとの仕事を褒め「君のお蔭で助かった、ありがとう」と言い続ければ、やる気は段々と出てくるのだ。

前者は「学習性無力感」と呼ばれているが、この言葉を聞いたことがあるひとも多いだろう。この反対の現象である後者は「条件付け」と呼ばれることが多い。そんな旨い話があるのか?と疑問に思うなら、ぜひ

パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学

パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学

 

 を読んでみてほしい。こちらの内容については「誰かを教えることになったあなたへ -IDへの招待 ※6/24追記 - 図書館学徒未満」でも紹介した。実のところ、やる気は持って生まれたものや才能のようなものではなく、学習の結果身についたり身から離れたりするものなのだ。

 

最近の経営学のトレンドでは、従業員のやる気について朝礼の声出しなどで無理にやる気を出させようとするのではなく、人間が元々持っている自然な好奇心や向学心、それから導き出されるやる気をつぶさないようにしよう、障害を取り除く方向でマネジメントを頑張ろうという路線になっている。

経営の未来

経営の未来

 

 人間には元々、見知らぬものに対する自然な好奇心があるものなのだ。それを潰すのはマサカリを振り回す怖いひとであったり、訳の分からぬ理由で仕様を変更させるクライアントだったり長時間残業を押し付ける上司だったりする。負のフィードバックを廃し、楽しいフィードバックだけをしばらく与えていれば、興味はある程度自然に育ってくる、という考え方だ。子どもの理科学習と同じだね!

職場での先輩や上司の心無い一言が如何に負のフィードバックを与えて新人のやる気をそぐかは

あなたの職場のイヤな奴

あなたの職場のイヤな奴

 

 に詳しい。当人たちは早く成長してほしいとのつもりで厳しく接しているのかもしれないが、芽吹いたばかりの双葉を引っ張ったり踏んづけたりしても枯れるだけだ。甘やかせとは言わないが、厳しく接する程度とタイミングは見計らうべきだろう。

 

「後輩/部下の学習意欲がない、やる気がない……」とお嘆きなら、そのことを説諭したい気持やあれを読めこれを読めとおススメしまくりたい気持をグッとこらえて、ちょっとでも何かを勉強してきたり向上が見られたりすることがあったらすかさず「すごい、やるじゃないか!」という言葉をかけてみてはどうだろうか。これはわたしの教師としての個人的な経験だが、いつも新学期が始まる頃から学生たちひとりひとりにこういう声掛けをしており、今のところ9割くらいの打率で3か月以内に居眠り学級を勉強大好きクラスに変貌させられている。「ゲームは子どもを褒めてハメる」理論の応用でもあるが、お試しあれ。

 

企業に成長戦略は必要か

経営改善というテーマについて口酸っぱく言われる施策のひとつに「成長戦略を作成し、それを全社員で共有しよう」という話がある。たとえば『How Google works』でも、冒頭部分に「まともな企業としての体裁を整えるため」数値目標はないものの、Googleのこれからのグランドデザインを急ピッチで作成するシーンがある。 

How Google Works (ハウ・グーグル・ワークス)  ―私たちの働き方とマネジメント

How Google Works (ハウ・グーグル・ワークス) ―私たちの働き方とマネジメント

 

 しかしそれと真っ向反対の主張も存在する。たとえば『強いチームはオフィスを捨てる: 37シグナルズが考える「働き方革命」』の前著『小さなチーム、大きな仕事』では、計画表を作るだなんて無駄な作業はやめて目の前のことに集中しろ、成果は後からついてくるものだ、的な主張がなされている。 

小さなチーム、大きな仕事〔完全版〕: 37シグナルズ成功の法則

小さなチーム、大きな仕事〔完全版〕: 37シグナルズ成功の法則

  • 作者: ジェイソン・フリード,デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン,黒沢 健二,松永 肇一,美谷 広海,祐佳 ヤング
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2012/01/11
  • メディア: 単行本
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しかし同書の中でも、やるべきこととやらないべき事項を峻別し、後者は徹底的に捨てろと唱えられている。やるべきこととやらないべきこととを峻別するためには、その基準となる何らかのポリシー――たとえば「成長戦略」が必要なのではないのか?

一体、何をどうすればいいと言うのだろか。

Joel on Software』の「射撃しつつ前進」に興味深い記述がある。

私の会社のように小さな会社には、射撃しつつ前進は2つのことを意味する。あなたは時間を味方につける必要があるということ、そして毎日前へ進む必要があるということだ。遅かれ早かれあなたは勝つだろう。(中略)毎日私たちのソフトウェアは良くなっていき、より多くの顧客を獲得する。それが重要なすべてだ。私たちがOracleサイズの会社になるまでは、私たちはグランドストラテジーについて考える必要はない。私たちがしなければならないのは、ただ毎朝やってきて、どうにかエディタを立ち上げるということだ。

 これはどちらかと言えば『小さなチーム、大きな仕事』の主張に近いが、話が企業の規模に触れている。旧37シグナルズ(現Bootcamp社)もまた比較的小さな企業なので、どうやら企業規模と成長戦略(グランドストラテジー)の必要性の間には関係がありそうだ。

 

そもそも、企業が成長戦略を必要とする理由はなんだろうか。企業経営とは目的に従って経営資源を管理・分配することだから、当然成長戦略もそれに関わる。つまり、経営資源の管理・分配の根拠となる「目的」。それが今後数年~十数年というスパンにおいて策定されたものが成長戦略だ。

一定の分量の経営資源(ヒト・モノ・カネ・時間・情報)を自分の判断で管理・分配できる権能を決裁権という。例えば一定額のお金で業務に必要な買い物ができたり、新しく誰かを雇い入れたり、あるいは誰かをクビにしたりできる場合もある。一般的な企業では経営陣を含む管理職が自分の職能に応じた決裁権を持ち、その範囲内で日々の業務を行っている。

そしてもちろんだが、決裁権所持者の間で管理・分配のポリシーはある程度統一されていなくてはならない。てんでんばらばらなやり方で限りある資源を分配されてしまったら資源の浪費になるし、場合によってはコンフリクトさえ生じてしまう。

決裁権所持者の間でこのポリシーを統一する方法は2つある。ひとつは、できるだけ決裁権を持つ人間の人数を減らし、またそれらの人間の決裁権量をツリー状に体系化するやり方だ。大勢の人間でひとつのポリシーを共有するのは大変だ。だからできるだけ人数を減らし、かつツリー上に組織して下位の人間の決裁権を上位の人間よりも必ず小さくすることで、判断ミス時の被害を最小限に防ぐ。この方法の利点は、複雑なポリシーを最小労力で運用できることと、例外事例が発生した場合に「上の人間に投げる」というたった一つのやり方で処理できることだ。運用コストの小ささから、伝統的な企業ではこのやり方が好まれており、古典的な組織デザインの教科書でも特別な理由がない限りこのようなやり方で組織を設計するのが実用的だと説かれている。

組織デザイン (日経文庫)

組織デザイン (日経文庫)

 

 デメリットとしては、決裁権を持つ人間が少なくなるために意思決定が遅くなること、また意思決定の硬直化を招くことだ。このやり方を採用した場合、意思決定ポリシーとしての成長戦略を全社員で共有する意義は薄れ、どちらかというとモチベーション向上のためという側面が強くなる。

企業内で資源の分配を伴う判断は数多く発生する。この顧客の返金要求に応じるべきか?この機能を実装するべきか?このプログラマを採用するべきか?多彩な状況に対応できるほどの複雑なポリシーはなかなか組織構成員全員での共有は難しい。一説には30人が限界だと言われている。マニュアル化・明文化で対応するにも限度があるだろう。だから大規模組織の運営では、決裁権所持者の人数を制限するやり方が楽だ。

さてもうひとつのやり方が、必要最大限の決裁権を組織構成員にばら撒いた後で、何が何でもポリシーを全員で共有する方法だ。かなり大変な道だが、不可能という訳ではない。「クレド」を教育されたスターバックスの店員にある程度の臨機応変な判断が許されていることは知られているし、日本でもアメーバ経営という効率化の方法が稲森和夫によって提唱され、一定の成果を上げている。

アメーバ経営 (日経ビジネス人文庫)

アメーバ経営 (日経ビジネス人文庫)

 

 この方法のメリットは、何といっても意思決定の早さだ。現場の人間がそれぞれ必要な意思決定をその場でバリバリ行うので、色んな問題が瞬時に解決する。また権限移譲により、管理職の負荷が減る。管理職が管理業務に専念している訳にはいかないような小さな企業にはうってつけだ。また、昨今の企業にはとかくスピードが求められる。そのため、大企業にもこのやり方が取り入れられつつある。全社員にポリシーを理解できる"素質"があるならば、運用方法に工夫が要るものの不可能ではない。

デメリットは判断ミス時の損失が大きくなりがちなところだ。また決裁権所持者の人数が増えるため、判断ミスが発生する確率も高まる。したがって、このタイプのやり方を採用するならば判断ミスの発生を前提としてあらかじめ対処法を考えておかなければならない。

 

最初の話に戻ろう。もし成長戦略

  • 誰か偉いひとが作り、下位の人間に通知するもの
  • 明文化されるべきもの

だと見なすならば、それが全員が決裁権を持つような小さな組織には必ずしも必要でないことが分かる。そのような組織では偉い人もへったくれもなく、また明文化するまでもなく普段の綿密なコミュニケーションでカバーできるだろう。おそらく、そのような組織の「成長戦略」は緩やかな合議で決まる、雰囲気のようなものだ。

ただし、例え全員が決裁権を持つタイプの組織だとしても、人数が200人を超えるなどという規模になってくると話が変わる。さすがに理解の分散が大きくなるからある程度の明文化をしない訳にはいかないし、経営戦略の作成・管理に大きな労力を割くべきポジションの人間も出てくるだろう。

また、決裁権所持者の限られる伝統的企業であれば、規模に関わらず成長戦略の明示が望ましい傾向がある。人間は全貌のわからない仕事に従事すると徒労感を覚える生き物なので、モチベーションコントロールの観点からあった方が望ましいと言える。とは言っても、あくまで「望ましい」の範囲だけれど。

 

そんな訳で、成長戦略の必要性はその企業の「決裁権の構造」と「人数」によって(ある程度)決まる、というのが本稿の結論だ。気が向いたら、ぜひ自分の組織を場合分けしてみてください。